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コンボ 投稿日:2002/04/20(土) 17:36

ちょっと冒険を。

三色のポール。
床屋の前に突っ立っている、なんていう名前だったか、とにかくポールを横目に僕はドアを開けた。
広くない店内には、三つの座椅子がある。
どの椅子の前にも洗面所のシンクが備わっている。
天井の近くには、オヤジが吸っている煙草の煙が漂っている。
どこからかラジオの音がする。
この雰囲気を、僕は好きだった。
「おう」
オヤジは事務員風の男の髪を切りながら、鷹揚の無い声で出迎えた。
いつもと同じだった。
だが、すぐに店の奥からおかしな人が顔を出した。
若い女性だ。
いつもならここでオヤジの奥さんが頼りない足取りで出てくるのだが、女性はしゃきっと歩いている。
顔も良い。
「そこ、座れ」
オヤジは顎で右端の席を示すと、女性になにか告げた。
女性は奥から物々しい、ローラーのついた棚のような物を引っ張り出してきた。
棚にははさみやカミソリがいくつも乗っている。

はさみやカミソリだけなら分かるのだが、はけや、遠くからでも匂いのする液体の入ったビンは何だろうか。
女性は僕の背後に陣取り、棚からタオルを取り出した。
「オヤジ、誰だよこの人」
「ああ?
 姪のなつみだ、前に言っただろ、理容師の学校行ってるって」
オヤジは鬱陶しそうに振り向くと、事務員と話し始めた。
「よろしくお願いします」
なつみさんは背後で頭を下げた。
それが鏡に写るのだが、大袈裟なぐらい頭を下げる。
あまりにも急角度すぎる。
「ああはい、どうも……」
こちらまで頭を下げたくなる。
なつみさんは、野暮ったいオヤジとは似ても似つかない。
オヤジなら締め付けるようにタオルを巻くのだが、今回は首を包み込むようにタオルが巻かれる。
気分からして違う。
「どのぐらい切りましょうか」
なつみさんは不慣れな手つきではさみを手に取った。
妙に緊張した面持ちである。
「じゃあ、結構伸びてるし、暑くなるから半分くらいの長さを切ってください」
「分かりました」
なつみさんは震える手つきで髪の中にはさみを入れようとした。

「あの、髪濡らさなくていいんですか」
そう言うと、なつみさんははっとしてはさみを置いた。
すぐに霧吹きに持ちかえる。
「ごめんなさい、ほんと、ごめんなさい」
勢い良く水を吹きつけながら、なつみさんは謝った。
「いや、別にいいですけど……」
それはいいのだが、霧を吹きつけすぎて髪がぐっしょりと濡れている。
頭が重たい。
髪の先からは雫が滴っている。
「もういいんじゃないですか」
「そうですね」
口ではそう言ったが、なつみさんはまだ物足りないようだった。
霧吹きを片付けると、また震える手ではさみを取った。
今度こそ、髪を切るのだろう。
重い頭ともおさらばできる。
「えっと、どれぐらい切るんでしたっけ」

学校に通っているだけあって、切り始めるとなかなか上手い。
落ち着いてきたのを確認して、話しかけた。
「なつみさんは、オヤジとはどういう関係なんですか」
「えっと、オヤジさんの弟が私の父です」
「なるほど、どこに住んでるんですか」
「えー、室蘭です、北海道の」
決してナンパしているわけではない。
話すことがないのだから、仕方が無いのだ。
一言も話さないでいるのも暇だし、寂しい。
「結構いい所ですよ、室蘭って。
 まず綺麗なんですよね、景色が。
 こう雪が降ると大変なんですけど、朝とかは綺麗なんですよ、光が。
 あとね、北海道は雪ばっかりだと思ってる人が多いんですよね。
 いやまあ、確かに冬には多いですよ、冬にはね。
 でも、夏になればそこはそれ、爽やかな風が広い地面をぱーっと行くわけなんだべ。
 そりゃあ爽快なもので、いっぺん味わえばたまらねえべ。
 あ、お客さん、寝ちゃうと頭が揺れるんで、起きてください」

一通り髪を切ると、今度は例のはけが登場する。
石鹸を泡立てた容器か何かに突っ込んである。
座席が突然後ろに倒れ、上半身が仰向けに寝転ぶ体制になった。
「はーい、じっとしててください」
なつみさんは笑顔ではけを取り上げ、泡を俺の顔の右半分に塗りたくった。
泡が目に入る。
痛いが、どうにもできない。
なつみさんはカミソリを取りだし、俺の頬に当てた。
顔中の毛を剃るようだ。
頬が終わり、鼻の下が終わると、耳たぶに移った。
耳たぶの毛まで剃っている。
僕はその間も目の痛みに耐えていた。
最後に、カミソリは顎に刃を立てた。
文字通り、刃を立てたのだ。
「あー、ごめんなさい。
 大丈夫ですか、痛くないですか」
「いえ、大丈夫です」
そう言いながら、僕は目と顎の痛みに耐え、ひそかに涙を流していた。
「じゃあ、今度は左側にいきますねー」

洗髪が終わり、タオルが手渡された。
顔に当てると、血が点々とついている。
顎に三ヶ所、鼻の下に一ヶ所の傷があるのだから、当然だ。
なつみさんはコンセントを差しこみ、ドライヤーのスイッチを入れた。
僕の手からぱっとタオルを取り上げ、がしがしと頭をこする。
乾かすのではなく、こする。
思わず頭が前後するぐらいこする。
いつものように「いてーよ」とも言えず、黙って頭を前後させるしかない。
さらに、ドライヤーの熱風が至近距離で当たるのだ。
わざと髪をかき分けて、地肌に当てているとしか思えない。
しかも一点に集中して。
数秒にして、頭上は警報が発令されそうな勢いになった。
床屋でこんな苦痛を強いられるとは思わなかった。
本来なら、オヤジの奥さんが申しわけ程度に髪を撫でて終了、となるところが今日は違う。
やけに気合いが入っているのだ。
無言なだけに余計恐い。
洗髪そのものより三倍近い時間をかけたが、所々しか乾いていなかった。

「二千三百円です」
財布から、たまたま入っていた二千円札を取り出す。
「うわー、二千円札ですよね、それ。
 私見たことなかったんですよ」
なつみさんは二千円札を蛍光灯に透かすように眺めた。
「もう無くなっちゃったのかと思ってました」
「無くなりはしませんけど」
思わず苦笑してしまった。
「でも、珍しいですよね、これ。
 あっ、この人紫式部なんですよね。
 それでこれが、南大門、でしたっけ」
「守礼門だと思います」
「ふーん、そうなんだ。
 あ、ありがとうございます」
三百円を渡して、ドアに手をかけた。
生乾きの髪が風になびく。
「また来てくださいねー」
振りかえると、なつみさんは二千円札を片手に手を振っていた。
僕は三色のポールを見ながら、彼女はいつまでここにいるんだろう、と考えた。