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コンボ 投稿日:2002/07/13(土) 21:32

寮は、スーパーから歩いて十五分ほどでつく。
龍彦は両手にビニール袋を持って、寮へ向かっていた。
集まるのは友人の木戸の家ということになっている。
仕切りたがりなのだから、丁度良いだろう。
袋は満杯で、中身は木戸たちから集めた金で買ってきた。
肉や野菜に混ざって、酒もかなり入っている。
夕方だからまだ涼しいが、それでもスーパーから出て五分もすると汗まみれになる。
両手の袋が重すぎる。
高二の時にハンドボールをやめたきり、ほとんどスポーツはやっていない。
龍彦は踏切で立ち止まると、袋を持ちなおした。
そういえば、木戸がやけにはしゃいでいた。
集めた金もやけに多かったし、どこかから女の子を呼んだに違いない。
入学して半年も経たないうちに、すっかり大学になじんでいるようだった。
高校で始めてあったときも、すでに校内ではかなり顔が効いていた。
その割にはもてないが。

汗まみれで寮の玄関に腰を下ろした。
しばらく玄関で座っていると、ばたばたと階段を降りる音が聞こえてきた。
「なんや坂本、来てたんか」
木戸は関西弁で龍彦に近寄ったが、手伝う様子はない。
「木戸、上まで運んでくれ」
「アホ、ジャンケン負けたんお前やねんから、上まで運べや」
龍彦の側に座りこむと、買ってきた袋の中身をのぞきはじめた。
「えーっと、白菜に人参に大根……お前、高っかい肉買うてきたなあ」
「安い肉よりマシだろ」
「ほんで、なんやこのイカと牡蠣は。
 趣味が老けすぎやっちゅうねん」
「お前が買いにいかせたんだろうが」
「今日はあれやぞ、女の子が結構来んねんから、もっと女の子の好きそうな物買ってきてくれな困るわ」
「買ってくる前に言えよ、そういうことは」

二階の木戸の部屋に上がると、高杉と西郷は空の土鍋を囲んでいた。
「おおっ、来た!」
袋を机に置くと、高杉は細い眼鏡の奥の目を光らせて中身をのぞき込んだ。
西郷も首をつっこんだ。
「おいなんだよ、このイカと牡蠣は」
イカと牡蠣は不評らしい。
「っていうか、なんでこんな暑いのに鍋とかやるの?」
「ん? ああ、石川さんが鍋好きやからって、木戸が」
「はあ?」
西郷はにやにや笑った。
「おい、石川って石川梨華?」
「なんか、そうらしい」
「俺が話つけたんやぞ、俺が!」
木戸はにいっと笑った。

「こんにちは〜」
準備もはじめないうちに、梨華たち四人はやってきた。
『教育学部のアイドル』石川梨華の名前は、龍彦も聞いたことがある。
最初はテニスの天才ということで有名だったのだが、次第に「可愛い」と評判になった。
木戸は興味津々といった顔つきだったが、高杉は横目で一瞥しただけだった。
ドアから入ってきて真っ先に目が合った。
軽く会釈されたので、こっちも頭を下げる。
「ごめん、まだできてないんだ」
西郷は得意の甘いマスクに笑みを浮かべると、机の周りに梨華たちを座らせはじめた。
机は結構大きいから、二人づつ向かい合わせに座る。
男の両隣は女になるようにしている。
見るからに合コンの布陣だった。
「ちょっと待てや、西郷」
木戸は西郷の肩を叩いて、耳打ちした。
「お前、抜け駆けはあかんぞ、マジで」
「バカ、早い者勝ちに決まってるだろ」
西郷は自分の右隣に梨華を座らせて、自分も座った。
角を挟んで龍彦の左に座った梨華は、端正な顔立ちだった。
茶色に染めた髪は肩の後ろで途切れている。
「ここ、座ってもいいですか?」
「あ、はいはい、どうぞ」
ショートカットの、背の高い女性が右に座った。
「藤本美貴っていいます」
「あ、はい……坂本龍彦です」
向かい合って頭を下げると、木戸が近寄ってきた。

「坂本、悪いねんけど、材料切ってくれへん?」
「なんだよ、いきなり……なんで俺がやるんだよ」
「だって、誰かやらなあかんやろ。
 お前女に興味ないんやったら、やっといてくれよ。
 適当に切っといてくれたらええから、な?」
木戸は龍彦の肩を叩いた。
「……しゃあねえ」
「マジで? やってくれんの?」
「やりたくねえけど」
「いや、マジでサンキュー!」
木戸は飛び跳ねるように机に戻って、隣の女性としゃべりはじめた。
龍彦が腰を上げると、美貴は龍彦を見上げた。
「どうかしたんですか?」
「鍋の材料切ってくる」
「あ、だったら私もやりますよ」
美貴は立ちあがると、龍彦より先に台所へ立った。

「料理とかしたことあんの?」
「うん、ちょっとね」
ちょっとね、と言いながら、美貴は手際よく鯛を切りはじめた。
「結構上手いじゃん」
「料亭でバイトしたことあるんだ」
あっという間に鯛をさばき終わると、白菜をざくざく切り分けはじめた。
「あれ、だしってどうやって取るんだ?」
「寄せ鍋だし、別にいらないでしょ」
包丁を取られているから、取り合えず海老の殻を剥く。
「あれー?
 なにやってるんですか?」
龍彦が振り向くと、梨華が身を乗り出して台所を見ている。
梨華の声で、その場の全員がこっちを見た。
「いや、別に……材料切ってるだけだけど」
「だったら私もやりますよ。
 料理大好きなんですよ、これでも」
梨華は立ちあがると、美貴の手元をのぞきこんだ。
木戸と西郷は床に手をついたまま、呆然としている。
「ねえねえ美貴、包丁替わってよ」
「嫌よ。
 梨華料理できないじゃん」
「いいじゃーん、ちょっとぐらい」
梨華は無理に包丁の柄を握ったかと思うと、まな板の白菜を真ん中で切った。
そのまま皿に盛ると、今度は大根に手をかけた。
見る見る木戸の顔が引きつっていった。

梨華が豪快に切った白菜や大根をはじめ、全ての材料を皿に盛りつけると結構な量になった。
皿は木戸の手に渡った。
「っていうか、ご飯ないの?」
高杉の隣の女性が、持ってきた箸でポン酢の入った皿を叩く。
「あゆみ、ご飯持ってきてないの?」
「無理でしょ、持って来るとか」
美貴が訊くと、女性は箸をおさめた。
今度は木戸の隣に座った女性が騒ぎ出した。
「ねえ、石狩鍋じゃないの、これ」
「寄せ鍋って言うたやん」
「だって、鮭ぐらい入ってるでしょ、普通」
「入ってません」
「えー、せめて鮭は欲しいんだけどなー」
木戸は苦笑しながら材料を入れはじめた。

鍋はなかなか美味しい。
窓から涼しい風が入ってくるのと扇風機を二台つけているおかげで、案外快適にすごせる。
食べはじめて少ししたところで、木戸が酒を取り出した。
「みんな好きに飲んでや」
木戸は自らビールを取ると、プシッと景気のいい音を立てた。
「おおー、お酒あるんじゃん」
美貴は机の上に山となった酒を見ると、チューハイを一本手に取った。
「ちょっと、私ら未成年じゃん!」
ご飯を欲しがっていた女性が、箸を美貴に向けた。
「あゆみねえ、堅すぎるよほんと」
美貴は缶を傾けながら言った。
梨華と石狩鍋の女性は、共にビールを飲みはじめた。
「もったいないなあ、おいしいのに」
「そうそう、ちょっとはお酒飲んで丸くならなくちゃねえ」
ご飯の女性はそっぽを向いて鍋をつついた。

みんなが少し酔いはじめた頃、木戸が手を叩いた。
「はいはいはい、このまま食っててもなんやから自己紹介しよか」
ここからが木戸の本領である。
「ほんじゃまずは麻美ちゃんから!」
木戸の右隣に座った『石狩鍋』が喋り出した。
「はい、木村麻美です!
 北海道から来ました!
 特技は乗馬です!」
男たちから感嘆の声が上がる。
「お嬢さまなんだね」
西郷が言うと、麻美は相好を崩した。
「いやぁー、田舎だからぁ乗るとこだけならぁあるんですよぉー」
麻美は顔中で笑うと、ビール缶をあおった。

「はい、木戸孝でーっす!
 特技は酔券です!」
早々に酔っ払った様子で、木戸は立ちあがった。
昔中国拳法を習ったことがあると聞いたことがあるから、あながち嘘でもないのだろう。
ふらつく足取りで意味不明のダンスを踊ると、場は異様に盛りあがった。
「次、柴田さん!」
「柴田あゆみです」
柴田は低い声でそう言ったきり、黙りこくった。
あゆみはいきなり白けてしまった雰囲気にも関わらず、一人ウーロン茶をすすっている。
「あゆみねえ、高校の時ずっと委員長やってたんだって」
美貴はとりつくろうように言った。
「へえ……」
木戸もうなずくしかなかった。
「じゃ次、高杉やな」
酒を一口すすってから、木戸は言った。
「えーっと、高杉晋太郎です。
 空手やってて、一応初段持ってます」
「初段だったら、黒帯じゃない?」
「え、マジ?
 すごーい」
女性の声に、高杉は照れながら笑った。

「藤本美貴です、特技はバレーボールです」
美貴は正面にお辞儀をした。
「藤本さんって梨華ちゃんとテニスやってるんだって?」
西郷は馴れ馴れしげに話しかけた。
なにげに梨華『ちゃん』と呼んでいるのが、木戸へのあてつけのようだった。
「テニスもやってます。
 高校の時から知り合いなんですよ」
西郷がふーん、と相槌を打つと、しばらく誰も話さなくなった。
「坂本、お前の番やぞ」
「え? あ、そう。
 なんも言うことないんだけど」
そう言うと、麻美がいきなり笑い転げた。
「なんか言うことあるやろ、名前も言うてへんやんけ」
「坂本龍彦です」
「……終わりかい!
 なんか他にあるやろ」
「他に……あ、木戸とは高校からの友達です。
 ハンドボール部に入ってましたけど、彼女に会うのが忙しいとか言ってやめました」
「俺の紹介してどうすんねん!」
一応みんなに受けたが、麻美には特に受けた。

「石川梨華です、よろしくお願いします」
梨華が甲高い声で言うと、木戸が即座に反応した。
「石川さん、テニスで全国大会出たことあるんですよね」
「ええ、まあ」
「すごいじゃないですか。
 全国大会なんてそうそう出れへんで、なあ坂本?」
「ひゃい?」
龍彦が大根を食べようと半開きにした口で答えると、麻美はまた笑い転げた。
――酒入ると笑い上戸になんのか?
そう思っても口には出さずに、大根を口に入れた。
梨華の自己紹介になると木戸や西郷が生き生きして見えるのは、気のせいではないのだろう。
二人とも満面の笑みを作っている。
梨華との話が一段落ついても、みんな西郷の自己紹介を忘れたままだった。

成り行き上、龍彦は美貴と喋るしかなかった。
梨華は西郷と話しっぱなしだし、木戸はなんだかんだ言いながら麻美と楽しそうに喋っている。
高杉とあゆみもテンションの低いながらも盛りあがっていた。
「坂本くんはスポーツとかやる?」
話を聞くと、美貴は一通りのスポーツには手をつけているらしい。
初対面の相手にはスポーツの話がやりやすいのだろう。
「高校の時に、木戸と同じハンドボール」
「ハンドボールはねえ、私も小学校の時に2年ぐらいやってた。
 近所にそういうチームがあってぇ」
「俺の所もあった。
 俺は中学から入ったけど」
「他にはなんかやってたぁ?」
酔ったせいで美貴のろれつは回らなくなっている。
「スキーとか?
 ちょっとだけなら滑れるけど?」
龍彦の口調もおかしくなっていた。
「あー、私ねぇ、北海道生まれでぇ、スキー得意なんだー。
 今度スキーとか行かない?」
「いいね、あした行こう」
二人とも夏の暑さなど感じていなかった。

「よっしゃ!
 ここらへんで闇鍋やろか!」
突然、木戸が立ち上がって喚き散らした。
誰も止めに入らず、闇鍋コールまで起こってしまった。
いつのまにかあゆみも酒を口にしている。
木戸は材料の載っていた皿に冷蔵庫の中身を片っ端から載せて、鍋の蓋をかぶせた。
「お前なに入れるんだよ?」
「アホ、なにが入ってるか分からんから楽しいんやないか」
皿を鍋の側に置くと、木戸は部屋の明かりを消した。
部屋に悲鳴が飛び交う。
両隣が空き部屋で良かった。
「さーまずは、坂本!」
「なんで俺なんだよ!」
「アホ、一番リアクションしそうやからに決まってるやろ!」
「マジでやんのかよー」
口ではそう言いながら、龍彦は鍋の中に箸を突っ込んだ。
「これなんだよおい、キュウリじゃねえかよ!」
「箸つけたんなら全部食えや!」
「なんで一本丸ごと入ってんだよ!」
「っていうか、なに入れたら汁が白くなんの?」
部屋は意味不明の喧騒にあふれかえった。

「最後は不肖、木戸がいきます!」
木戸は鍋を丸ごとつかむと、口をつけて一気に汁を飲みはじめた。
見るからに体に悪そうだが、皆木戸の一気飲みに目を見張っている。
材料もかなり入っていたが、全部口の中に入れて鍋を空にした。
「すごいじゃん、木戸くん!」
「男の中の男!」
「いや、ありがとう、ありがとう」
ありがたくもない賛辞の声を受けながら、木戸は明かりをつけた。
明かりの元で見ると、木戸の顔は真っ赤で、顔中の筋肉が伸びきっている。
「……あれ、梨華ちゃん?」
西郷が右隣の梨華の顔をのぞきこんだ。
梨華は静かにうつむいている。
「どうかした?」
盛りあがっていた場は、すぐ静かになる。
梨華はうつむき加減で口を開いた。
「……キスされた」
「はあ?」
声に出したのは西郷だけだったが、その場の全員がそう思った。

女の子たちはこぞってトイレに立った。
放心状態の木戸は溜息をついて、頭をがりがりとかいた。
「闇鍋なんかやるんちゃうかったかな」
酒はすっかり抜けているようで、木戸は鍋を持って立ちあがった。
土鍋を声もなく流しに置く。
「そんなに落ちこむことないだろ。
 勘違いかもしれないって言ってたし」
高杉がそう言っても、木戸は静かに鍋を洗うだけだった。
「って言うか、ここで女の子帰っちゃったら、意味ないぞ」
西郷は投げかけるように声をかけた。
「なんとかして引きとめなきゃな。
 梨華ちゃんにキスしたの俺ってことになってるし」
西郷は真顔になった。
「……そうだな」
木戸はやっとのことで返事をして机に戻った。
「そう言えば、高杉って柴田さん狙い?」
「まあな」
龍彦の質問に、高杉は机の上で手を組んだ。
「知らんかったん?」
「全然」
木戸は呆れたようにのけぞっる。
「それよりさあ、木戸は結局誰がいいの?」
高杉は木戸の方を一瞥した。
「俺はなあ、最初は梨華ちゃんやったけど、まあ作戦変更やな」
落ちこんでいる影はなく、早くも立ち直ったようだった。

梨華はトイレの洗面所で一息ついた。
「結局あれはマジなわけ? 嘘?」
美貴は梨華の隣で腕を組んだ。
「嘘」
「……なんでそういうことするかなー」
美貴は首を回して溜息をついた。
「だって、あそこの席いいかげん嫌だったし」
「なんで? 西郷さんって結構かっこいいじゃん」
「あゆみはね、他人事だからあっさり言えるの。
 ああいうのはなに、自意識過剰って言うの?」
「へえ、そんなにキザなんだ」
「結構すごいよ」
あゆみは話していた高杉のことを思い浮かべた。
自意識過剰どころか、始終謙遜していたような気がする。
「じゃあさ、誰の隣がいいのぉ?」
まだ酔いの抜けていない麻美が、腰砕けの声で言った。
「木戸くんでいいなら替わるけどぉ?」
「あそこもイマイチだな」
「……坂本くん?」
美貴が訊くと、梨華はにやっと笑った。
「坂本くんが無理なら高杉くんでいいけど?」
「嫌よ」
あゆみはあっさりと言った。
「梨華だって、坂本くんの隣じゃん」
「あそこに座ってたら、西郷の話しか聞けないもん」
「でもさあ……結構私らいい感じだったんだけど」
「ちょっとだけだって、ちょっとだけ」
梨華は明るく言うと、愉快そうにトイレを出た。

梨華は、努めて暗く部屋に戻った。
うかつに声もかけられない中、木戸はおずおずと問いかけた。
「あの……石川さん、大丈夫?」
「あ、はい、ごめんね、心配させて」
「おう……」
木戸が黙ると、美貴が明るく口を開いた。
「でもまあ本人も立ち直ってるし、明るく、ね?」
梨華が軽く睨んでいるのに気付いたが、美貴は気にせず龍彦の隣に座った。
あゆみも涼しい顔で高杉の横に腰を下ろす。
西郷が手持ちぶさたにしているのを見た梨華は、酔った麻美の背中を押した。
西郷の横に行くと、麻美の肩を押す。
足取りの定まらない麻美はその場にへたりこんだ。
首尾良く麻美を西郷の隣に座らせると、梨華は木戸の隣に足を崩した。
予想していたものの、西郷は落胆の色をありありと浮かべた。
「石川さん、ほんまに大丈夫?」
「うん、ありがとう」
微笑む梨華を見て、思わず木戸の口が緩んだ。
「お酒飲む?」
「あ、飲む飲む」
梨華は傍らのチューハイを取り上げると、一口飲んだ。
木戸もビールを口にする。
その間、梨華の視線は美貴とその隣にいる龍彦に注がれていた。

「坂本くんって彼女とかいるの?」
「いきなりなに?」
龍彦はなるべく冷静なふりをしたが、ビールを持つ手が震えた。
「彼女とかってなに? とかって」
「じゃあ言い直すけど、彼女いるの?」
「今はいないけど」
「気になる人とかは?」
「……なんだよ、おい。
 いきなり変な話するなよ」
龍彦は空き缶を寄せ集めると、自分の前にまとめた。
なにかしないと気が紛れないのだ。
「変って、今日は木戸くんに誘われたから来たんでしょ?
 私たちも来るって知ってたんじゃないの?」
「騙されたんだよ。
 男だけで鍋食うと思ってたのに、いきなり来たからびっくりしたよ」
「じゃあ、彼女作らなくていいの?」
「いやでもね、そういう目的で参加したんじゃないんだって」
「へー……」
美貴はうつろな目で相槌を打った。
「女の子に興味はない?」
「だから、そういうわけじゃないんだけど」
「そういうわけじゃないんだったら、誰かと付き合ってもいいんだよね?」
「まあな」
龍彦は思わず勢いで言ってしまった。

梨華は木戸の話を聞き流しながら、美貴と龍彦のやりとりに耳を傾けていた。
「だったらさ……」
そう言って、美貴は沈黙した。
「ちょっと坂本くん、そこのビール取ってくれない?」
梨華はすぐさまビール缶を指差し、横槍を入れる。
「ん? ああこれ?」
龍彦は手元のビールを梨華に手渡した。
「ありがと」
美貴が横目で睨んでいるのが分かったが、梨華は精一杯の笑みを浮かべた。
「で、なに?」
「……ううん、なんでもない」
「ふーん……」
龍彦には高一の時以来彼女がいない。
そのたった一人の彼女とも、五日しか続かなかった。
龍彦にとっては男女関係は禁忌とも言うべき話題だった。

「恐いんやろ?」
高二の時、部室で木戸に言われた。
「矢口の時みたいになりたないと思ってるから、付き合えへんねん」
木戸は別れた彼女の名前を引っ張り出した。
背の低い、声の大きい女子だったと思い出す。
「もういいだろ」
「ええわけあるか。
 俺の紹介で知り合って、五日で別れられたらたまらんわ」
木戸はハンドボールに興味があると言った矢口を、無理矢理試合に連れていった。
嫌々来た矢口も次第に応援するようになり、部員とも仲良くなっていった。
龍彦の告白で、二人は付き合うようになった。
が、龍彦は付き合いはじめて五日目で、別れを決めた。
矢口といる時間が安らげないのだ。
ついつい嫌われないようにと気を使いすぎる。
矢口も龍彦が無理をしているのは気付いていたので、二人の合意で別れた。
そこから、人に気を使うのが嫌になったため、龍彦は女性経験がゼロに等しい。

夜が段々更けてきた。
時計の針は9時半を指している。
「あ、そろそろ時間だ」
美貴は腕時計を見てつぶやいた。
龍彦や木戸といった面々は寮に住んでいるから問題ないが、女性陣は帰らなくてはならない。
寮の門限は10時で、当然それまでに寮を出なければ帰れない。
「……悪いんだけど、駅まで送ってもらっていい?」
美貴は赤らんだ顔で龍彦を見た。
頭の痛くなってきた龍彦は、素っ気無く答える。
「なんで? みんなで帰れば?」
「でも、なんか……」
そう言って、美貴は高杉を一瞥する。
顔の赤らんだ高杉とあゆみは、揃って席を立った。
「ちょっと、駅まで送ってくる」
高杉は愉快そうな足取りで部屋を出た。

龍彦は美貴と並んで玄関まで下りた。
できれば、こういう展開は避けたかった。
矢口とのことを思い出す。
寮を出ると、空には半月がかかっていた。
明かりといえば街灯ぐらいだが、歩くにつれてネオンが光り、明るくなる。
辺りは駅前の喧騒に包まれていた。
「結構、坂本くんって、かっこいいよね」
「ん?」
ぼんやりと矢口のことを考えていた龍彦は、痛くなるほど首を曲げた。
「え? 俺?」
「そう……ちゃんと聞いてる?」
「うん、聞いてる聞いてる」
生返事をすると、龍彦は美貴に寄り添った。
逆側から人が来たので避けただけのだが、美貴はそれだけで顔を真っ赤にした。
「な、なに? なんか用?」
「用って……なにが」
「だって今さ、寄ってきたじゃん、こっちに」
「ああ……人を避けただけだけど」
美貴はそれを聞いて薄笑いを浮かべると、笑いついでに溜息をついた。
「坂本くーん!」
突然、二人の背後から声が聞こえた。
喧騒の中でも聞き取れるような大声で、石川梨華は走り寄ってきた。

梨華は龍彦の右腕につかまった。
「なにしてんの、梨華!」
美貴は声を張り上げると、梨華の腕を引き離した。
「ちょっと、なに?」
突然横から入ってきた美貴に、梨華はいぶかしげな顔をした。
龍彦も驚いて、美貴に振り向く。
「……どうかした?」
「別に……」
「私と坂本くんと手組んでもいいじゃん。
 美貴になんか関係あるの?」
「あるわよ」
美貴は口を尖らせて言い返した。
「美貴って坂本くんのこと好きなの?」
「好きよ、なんか文句あるの?」
美貴の声に、すれ違ったカップルが振りかえった。
「なに? なにむきになってんの?」
「梨華が訊くからじゃない!」
美貴は唾が飛ぶほど叫んだ。
「あんたみたいにねえ、話もしてないのに寄ってくるようなのと違うの!
 外見だけ見てなにが分かるってのよ、違う?
 いきなり腕つかんで良いわけないでしょ?」
美貴がまくしたてると、梨華はすっと龍彦から離れた。
「……あっ、そ。
 じゃあね」
「え?」
梨華は人込みの中に歩いていくと、振りかえって手を振った。

「あの……どういうこと?」
龍彦が訊くと、美貴ははっとした。
「あ、その……そういうこと」
美貴はうつむいて、か細い声をひねりだした。
「いや、なんで?」
「……やっぱり嫌?」
「ああいや、嫌とかそういうんじゃなくて、なんで俺とかさ……初対面だし」
「話してると一目惚れしちゃったんだ、多分」
「へえ……」
思い当たる節はない。
酒を飲みながら普通に話していただけだ。
気がつけば、目の前は駅だった。
「ねえ、携帯の番号教えてくれない?」
「おう」
黙って携帯の番号を告げると、美貴は素早く打ちこんだ。
「あの……今日楽しかったよ」
「……おう、俺も」
「じゃあ、帰るね」
互いにうつむいて喋っていたが、美貴が顔を上げて微笑むと、駅の構内へ歩いていった。
「あ……」
二、三歩歩いたところで、美貴は立ち止まった。
龍彦が見やると、誰かが駅の隅でキスをしていた。
「高杉……」
思わず口走った。
美貴はちらっと龍彦に振りかえったが、すぐに駆けていった。

帰る夜道で、遠くから電車が通りすぎるのを見た。
電車には矢口が乗っていたように見えたが、気のせいだろう。