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コンボ 投稿日:2002/07/28(日) 23:38

柳孝司は不機嫌だった。
連日、浜辺のゴミ拾いをしているために腰が痛むのだ。
夏休みに入ると海水浴の客がぐんと増えて、ゴミの量も多くなる。
一昨日は8件も迷子があって、事務所の中はてんてこまいだった。
腰の痛みをひきずって、孝司は混雑した浜辺を叫びながらねり歩いた。
腰はひどくなるばかりで、風呂場でかがんだときに思わず悲鳴を上げてしまった。
まだ二十歳をすぎたばかりだというのにこんなことでは駄目だと思うのだが、腰の痛みは止まない。
昨日は炎天下で倒れる海水浴客が続出し、朝から晩まで手当てのし通しだった。
救急車を呼んでの大騒ぎにもなり、腰の痛みは増すばかりである。
そんな中、今日は珍しく監視台に座っている。
浜辺や事務所にばかりいたせいか、体がなまっている気がして仕方がない。
孝司は肩を回して、ビーチの人々に目を凝らした。
今のところ注意するような人はいない。
痛む腰をさすりながら、孝司はライフセーバーという仕事の難しさをつくづく実感していた。

昼過ぎ、酔っ払いが離岸流にはまった。
離岸流とは文字通り岸から離れる流れで、水が沖へ戻る時に生じる流れのことである。
酔っ払いは岸へ泳ごうとしたが、もがくだけだった。
「助けてくれ! 溺れた!」
もがきながら大声でぶ酔っ払いは、顔が真っ赤だった。
「岸に泳いじゃだめです! 岸と並行に泳いでください!」
孝司は怒鳴りながら、海に飛びこんだ。
酔っ払いは孝司の言葉を聞いてか聞かずか、流れの中でもがき続けた。
――この酔っ払いが。
孝司が胸の中で毒づいていると、遠くから誰かが泳いでくる。
方向を見ると、どうやら酔っ払いを助けようとしているのだ。
誰かを助けようと飛びこんで、自分も溺れてしまうというのはよくある話である。
――あの野郎、仕事増やしやがって。
孝司は酔っ払いに近付くと、落ちつくよう言った。
「落ちついてください。
 力を抜いて、つかまってください」
酔っ払いは大人しく孝司におぶさった。
振りかえると、酔っ払いを追いかけていた誰かはまだ泳ぎ続けている。
――もう帰れっての
「危ないですから、近寄らないでください!」
そう言っても、引き返す様子はない。
仕方なく酔っ払いを連れて向かうと、追いかけていたのがビキニの女性だったことが分かった。

「しかし、よく叫べたなあ」
「いつも人に頼ってますから、お父さんは。
 助けを求めるのに慣れてるんですよ」
吉澤ひとみと名乗った女性は、孝司の独り言に反応した。
「ああいう時はパニックになってて、なかなか叫べないもんだよ。
 案外落ちついてたんじゃない?」
「ありえない。
 パチンコ負けただけでパニックなのに」
そう言って、ひとみは濡れそぼった茶髪をかきあげた。
酔っ払いもとい、ひとみの父親は日陰で寝ている。
「何書いてんの?」
ひとみは孝司の手元をのぞきこんだ。
「事故の報告書。
 ここではいちいち書かせんの。
 お父さんの名前は?」
「吉澤俊太郎。俊敏の俊に、普通の太郎」
「今日は二人で来てんのか?」
「何、そんなことまで言わなきゃ駄目なの?」
ひとみは不快をあらわにした。
「いや、言いたくないならいいけど」
孝司は一通り報告書を書き終えて、所長の机に置いた。

それから、吉澤ひとみは毎日来た。
必ず俊太郎と同伴で。
本当は孝司が知らないだけで、それまでも来ていた。
朝の9時頃から昼まで来て一反帰り、午後も3時間ほど海にいる。
ひとみは泳いだり、海を眺めたり、海の家のおばちゃんと喋ったりしているが、俊太郎はほとんど寝ている。
家からわざわざビーチパラソルを持ち出して砂浜に突き刺し、その下にシートを敷いて寝るのだ。
ある日、監視台の下で海を眺めていたひとみに聞いてみた。
「家近いの?」
ひとみは首だけで振りかえって、目を細めた。
「なんで?」
「毎日来てるから。家遠かったら来れないだろ」
「まあ、近いよ。こっから十五分ぐらい」
鬱陶しそうに言うと、ひとみは立ちあがって海に走っていった。
狸寝入りか知らないが、俊太郎は相変わらず寝ていた。

ある日、俊太郎がサーフボードを持ってきた。
どうするのか見ていると、意外と上手く波に乗っている。
孝司は、海の家から戻ってきたひとみに話しかけた。
「お父さん、サーフィン上手いね」
「中学からやってるんだって。
 サーフィンしか取り柄ないの」
30半ばの俊太郎は浜辺で寝ているだけで、よく女性に声をかけられる。
孝司もはじめは20代だと思っていたが、ひとみの父親と聞いて驚いた。
「若いね」というと、ひとみは不機嫌そうに返事をした。
「それって良いこと?」
「老けるよりは」
「そうかな」
「お母さんは?」
薄々勘付いているが、もしかしたら、と思って訊いた。
「いないよ。それで何?」
ひとみは不機嫌そうに砂を払って立ちあがった。
勘は当たっていた。

「柳さんですよね?」
事務所のそばでぼうっとしていた孝司に、俊太郎が話しかけた。
「ああ、吉澤さんのお父さんですか」
孝司は俊太郎の金髪を鮮明に覚えている。
俊太郎は孝司の横に腰を下ろした。
「どうですか、ひとみは」
「良い子だと思いますよ」
知り合ってから数週間経って、孝司が抱いた感想だった。
「やっぱりそう思います?」
俊太郎は嬉しそうに笑った。
「良い子なんですよ、本当に。 
 俺なんかにはもったいないくらいで」
俊太郎はまた笑ったが、今度は寂しげだった。
「……失礼ですが、奥さんは?」
「ひとみから何か聞きましたか?」
「お母さんがいないとだけ」
孝司は訊いたことを少し後悔したが、今更どうしようもない。
「馬鹿な話ですよ。
 19の時に結婚してひとみを生んで、21で離婚しました」
俊太郎はまた寂しげに笑った。
「この金髪ね、その時からなんですよ。
 ずっと染めとけばいつかまた会えるような気がしてね」
沖からの風で、金髪がなびいた。
「馬鹿でしょ?
 離婚するなら結婚するなって話ですよ」
俊太郎は金髪の頭をかきながら、どこかへ歩いていった。

連日晴れていたが、台風の接近で雨が降った。
昼だというのに外は暗い。
客足は止んで、どしゃぶりの浜辺には人影がない。
「せっかくお盆なのにな」
同僚はコンビニ弁当を食べながら言った。
「稼ぎ時に雨降られちゃどうしようもねえな」
「確かにこの雨じゃなあ」
「これ、明日やばいんじゃないか?
 朝からずっと降ってるし」
明け方からかれこれ6時間以上降っている。
「波もちょっとやべえよな。
 今はまだ風無いからいいけど」
同僚は口から米粒を飛ばしながら喋る。
「ちょっと見てくる」
「気をつけろよ」
孝司は傘を取った。
風こそ無いが、雨で増水して大変になっていることもある。
なにより、ひとみのことが気にかかった。

歩いてすぐ、浜辺に白い傘が見えた。
後ろからで顔こそ見えないが、ひとみだという確信がなぜかあった。
「今日も来たのか」
横にしゃがむと、ひとみは視線だけ孝司に向けた。
「こんな高波ばっかり見て楽しい?」
「別に……」
ひとみは体育座りで、荒れた海を眺めている。
「だったら来るのやめたら?」
返事は無い。
孝司は暗い浜辺を見まわして、人のいないことを確認した。
「お父さんは?」
「来てない。分かるでしょ」
「どこ行ってるんだ?」
「知らない。パチンコだと思う」
ひとみは鬱陶しそうに答える。
「前から訊きたかったんだけど、お父さんの仕事って何?」
「……何が聞きたいの?」
強い雨音の中では消え入りそうな声で、ひとみは言った。
「ちょっと興味がね……」
「興味だけで人の生活訊かないでくれる?」
ひとみは驚くほどはっきりした口調で答えた。
「どっか行ってくんない?」
孝司はしばらくじっとして、立ちあがるしかなかった。

長くなったので中編・後編に分けました。
後編も今日中に更新できそうです。

快晴で、風の強い日である。
「ちょっといいですか」
孝司が事務所で迷子のアナウンスをしていると、俊太郎がやってきた。
一通りアナウンスを済ませて、孝司は事務所の外へ出た。
「最近、ひとみに彼氏ができたみたいなんですよ」
俊太郎は砂浜に腰を下ろしながら話した。
「ちょっと前にサーファーと知り合ったらしくて、今も仲良さそうにしてるんですよ」
俊太郎の視線を追うと、ひとみが背の高い男と楽しそうに話している。
歳は孝司と同じぐらいで、黒髪で体が引き締まっている。
「何か知りませんか?」
大雨の日から、ひとみとは口を利いていない。
お互いに近付くこともなくなった。
意識的にひとみを見ていなかったから、サーファーのことも知らない。
「ちょっと分かりませんね……」
「そうですか……」
俊太郎は落胆の色を隠せないようだった。
「気になります?」
「そりゃまあ、一応はね」
言葉の割に、サーファーを見る俊太郎の顔は険しかった。

翌日、俊太郎は海に来なかった。
代わりにひとみは俊太郎のサーフボードを持って友人を連れてきた。
孝司の座っている監視台のすぐ下で、ひとみと友人は例のサーファーと会った。
「どうもはじめまして。後藤真希です」
後藤と名乗ったひとみの友人は頭を下げた。
「どうも、萩原です」
サーファーは笑顔で萩原と名乗った。
「ごっちんは物覚え悪いから苦労するかもしれませんけど、よろしくお願いしますね」
ひとみは笑って萩原に言った。
萩原はサーフボードを持って、二人の前を歩き始めた。
「結構かっこいいね、確かに」
後藤は耳打ちするようにひとみに言った。
「あれは私でも惚れるなあ」
「でしょ? サーフィンやってるのがまたかっこいいんだよね」
ひとみは笑ってサーフボードをかつぎなおした。

朝からのぶっ通しのゴミ拾いで、おさまっていた腰痛が再発した。
その日もひとみはずっと萩原といたが、今は海で泳いでいる。
ビニール袋を持った孝司が近付くと、萩原は立ちあがって周りのゴミを拾い集めた。
「ご苦労様です」
萩原は立ちあがって、孝司のビニール袋にゴミを捨てた。
「あ、どうもありがとうございます」
孝司が礼を言うと、萩原は孝司の顔をまじまじと眺めた。
「もしかして、柳さんですか?」
「ええ、まあ……」
いきなり萩原に自分の名前を呼ばれて、孝司は驚いた。
「どこかでお会いしました?」
「吉澤俊太郎さんから聞きました」
「あの……吉澤さんのお知り合いですか?」
――そうは思えないけど。
「一昨日初めてお会いしました。
 良いお父さんですよね」
萩原が海の家かどこかに入ったところを捕まえたに違いない。
――ただの親バカだって。
孝司はその言葉を噛み殺して、にっと笑った。
「あの、ひとみさんと付き合ってるんですか?」
「いえ……俊太郎さんにも言いましたけど、僕にはそういう気持ちは全然ありません」
萩原は素っ気無い様子でそう言った。
少し安心するのを孝司は感じた。
それが俊太郎に対する安心か、自分に対する安心かは分からなかった。

明け方、孝司が事務所を出ると俊太郎が待ち伏せていた。
「ちょっと、ひとみの様子がおかしいんですよ」
嬉しさを隠しきれない表情で、俊太郎は話しかけた。
「一昨日まで明るかったのが、昨日の晩から急に大人しくなって」
「それって……」
「萩原君に振られたらしい」
顔中をほころばせて、俊太郎は笑った。
「昨日になって俺にサーフボード返しに来たんですよ。
 「もうサーフィンやらないからいらない」って」
「そうですか……」
孝司は素直に喜べなかった。
ひとみをそこまで落ちこませた萩原に、少し腹立たしくさえなった。
「これで一安心ですよ」
俊太郎はそう言って伸びをした。
「さ、今日はサーフィンでもするか」

「ねえ、柳さん」
「ん?」
ひとみが監視台の下から声をかけてきた。
一週間ぶりに口を利く。
「サーファーの萩原さんって知ってる?」
「知ってるけど?」
「どんな人か教えてくれない?」
まだ諦めきれないらしい。
孝司にも似た経験はあるから、ひとみの気持ちはよく分かる。
好きだった相手に振られても、ついつい相手のことを知りたくなるものだ。
「良い人だと思うよ。あんまり知らないけど」
孝司が曖昧な返事をすると、ひとみは不満げな顔を作った。
「他になんか無いの? サーフィン上手いとか」
「ここの人は皆結構上手いよ。
 萩原さんとはあんまり付き合い無いから知らない」
そう言い残して、孝司はだんまりを決めこんだ。
しばらくするとひとみもとぼとぼと浜辺を歩いていった。

「前からお聞きしたかったんですけど」
孝司は海の家で俊太郎と向かい合って焼きそばを食べている。
「吉澤さんたちってなんで毎日ここ来てるんですか?」
俊太郎は焼きそばを食べる手を止めた。
「俺はね、ここが気持ち良いから。
 家で寝てても仕方ないし」
「仕事は何やってるんですか?」
「建築家」
孝司は思わず呆れたように口を開いてしまった。
「意外でしょ? 自由業だし、仕事は一気に来るから結構時間あるの」
「ひとみさんは何で来てるんでしょうね?」
「暇だからじゃない?
 友達の中でつまらないことするより、一人で勝手に好きなことやってるタイプだから」
そう言って、俊太郎はおばちゃんと話しているひとみを見た。
「あと、俺が別れた女と知り合ったのもここだし。
 二人でよく来てたって話したことあるけど、だからじゃない?」
俊太郎は水を口にして、また焼きそばを食べはじめた。

8月も終わろうかという日、ひとみは一人で来た。
一人で泳いで、海の家に寄って、日陰から海を見ていた。
監視台の下にも来た。
「お父さん、仕事?」
孝司の言葉は聞こえていないのか、ひとみの返事は無かった。
一時間もしゃがみこんでじっとしているだけだった。
翌日も、ひとみは一人で来た。
そして、話しかけてもひとみの返事は無い。
その翌日も翌々日も一人で来た。
何かおかしいことが起こっているのは、孝司にも充分分かることだった。
そして俊太郎が来なくなってから五日目、ひとみも海に来なくなった。

それから五日間、吉澤親子は姿を見せなかった。
昼休み、孝司は地元の地図を手に事務所を出た。
何かおかしなことが起こっている。
孝司には不吉な予感がしてならなかった。
海から吉澤家までは歩いて十数分で着いた。
住宅街の一件で、特に変哲もない。
インターホンを鳴らすか迷ったが、結局やめた。
これ以上親子の事情に口出しすべきではない。
孝司はそういう結論を出して、インターホンに伸ばしかけた手を戻した。
途端、家の中から大量の本が崩れる音がした。
何かの書類かもしれない。
孝司はびくっとして振り返った。
建築家の俊太郎のことだから、書類が山積みになって崩れることなど当たり前かもしれない。
そう思っても、孝司には不吉でならなかった。
二階のベランダに人影が現れた。
ひとみだ。
ベランダの壁にもたれかかって遠くを見つめはじめた。
孝司はただ、ひっそりとその場を去ることしかできなかった。

「柳さん、ですか?」
吉澤家に行ってから数日経って、例の後藤が、監視台の孝司に話しかけた。
「そうですけど、何か?」
はやる気持ちを押さえて、孝司は冷静に尋ねた。
「あ、吉澤ひとみの友達で後藤真希って言います。
 それで、その吉澤さんのことなんですけど」
後藤はためらいながら話した。
「最近ずっと家にいるみたいで。
 電話で聞いたら、お父さんと何かあったみたいで……」
「何か?」
「なんかよく分からないんですけど、喧嘩かなんかしたみたいでした。
 ……何か知りませんか?」
「……喧嘩したってのは本人から聞いたの?」
「お父さんと上手くいってないって言ってました」
考えこむ孝司を、後藤は不安げにみつめていた。
「ちょっと分からないな……」
「あ、そうですか。どうもすいませんでした……」
後藤は肩を落として歩いていった。

夜になると、孝司は事務所の二階に布団を敷いて寝る。
大半のライフセーバーはもう寝ていた。
孝司は一人寝転びながら携帯をいじくっている。
「番号聞いとけばよかったな」
舌打ちしながら携帯をしまうと、同僚が窓から浜辺をのぞいていた。
「まだ起きてんの?」
孝司が声をかけると、同僚は窓越しに浜辺を指差した。
「あそこ。もう11時なのに誰かいてるよ」
同僚は眠たげな声でそう言った。
確かに茶髪の誰かが浜辺にしゃがみこんでいる。
「分かった、注意してくる」
「じゃ、悪いけど先に寝とくな」
同僚はすぐ布団に横になった。
孝司も眠たいことは眠たいが、しゃがみこんでいる茶髪がひとみの後姿に見えて仕方なかった。

事務所を出ると、沖からの風が強いせいかいつもよりひんやりしていた。
風になびく茶髪はどう見てもひとみだった。
ひとみは孝司に気付くと一瞬びくっとしたが、すぐに視線を海へ戻した。
孝司は振りかえって事務所から誰も見ていないのを確認すると、ひとみの横に腰を下ろした。
「なんで今頃来てるの?」
ひとみは黙って唇を噛み締めるだけで、孝司の言うことなど聞こえていないようだった。
「友達の後藤さんだっけ?
 心配してたけど」
「心配って……」
一瞬、ひとみは動揺した目で孝司を一瞥した。
「わざわざここに来たんだよ。
 で、何か知らないかって訊かれた」
孝司はひとみが随分動揺しているのを見て取った。
「お父さんと喧嘩した?」
「……まあね」
ひとみは泣き出しそうな顔で返事をした。
「なんで?」
「お母さんのことでね、ちょっと」

ひとみは、小声でぽつりぽつりと話しはじめた。
「この間家でお父さんのアルバム見つけたんだ。
 それで見てみたら、お母さんと写ってる写真ばっかりあって」
孝司はひとみの話にじっと耳を傾けた。
「で、私が生まれたあたりから、急にお母さんの写真がなくなったんだ。
 私が2歳の時に離婚したから入れ違いになったんだろうけど。
 でも、なんか私のせいで離婚したみたいに見えちゃってさあ。
 で、なんで離婚したか訊いてみたんだ」
ひとみは話ながら涙ぐんだ。
「そしたらさ、お前のせいじゃないって、気にするなって言われたんだ。
 おかしくない?
 なんでって訊いただけなのに、お前のせいじゃないって言われたんだよ。
 訊いただけで気にするなって言われたんだよ」
孝司にはひとみの言いたいことが痛いほど分かった。
そういう経験をしたわけでもないのに、ひとみの悲しさが切々と伝わった。
自分が原因で離婚したんじゃないかと考えるだけでも悲しいのに、その上父親からこういうことを聞かされたのだ。
ひとみは目の縁の涙を指で拭った。
「嫌じゃん、そんなの。
 私のせいで離婚したって思いたくないじゃん」

「それでさ、次の日からお父さん海に来なくなったんだ。
 仕事入ったとか言って部屋にこもっちゃって。
 建築家なんだけどね」
仕事だったのに違いはないのだろうが、別れた妻のことを思い出して行く気にならなかったのだろう。
「でもね、私一人でも海来たんだ。
 アルバムの写真って海で撮ったのばっかりだったし、やっぱり来てみたかったんだ。
 でもそれからちょっとして、もう夏休み終わりなんだからちゃんと勉強しろとか、宿題やったのかって、お父さんに言われたんだ。
 今まで一回もそういうこと訊かれなかったんだよ。
 それがいきなり海に行くな、みたいなこと言い出してさ……」
最後の方は嗚咽で聞き取れなかった。
「落ちつけ」
孝司が静かな声でつぶやくと、ひとみは孝司によりかかるようにして泣いた。
孝司もひとみの気持ちを考えると、自然に涙があふれた。
自分が慰めてるんじゃなかったのか。
そう思っても、泣き止むことはできなかった。

孝司はひとみとともに家へ向かった。
歩いている間はお互いに黙っていた。
家がどこにあるかは知っていたから、説明される必要は無い。
住宅地に入った辺りで、ひとみが口を開いた。
「ありがとね」
「いや……」
孝司は答えられなかった。
自分がひとみを慰めたという気は全くしない。
ただひとみの言うことを聞いていただけだ。
結局まともに返事もできないまま、家についた。
二階の一室に明かりがついていて、人影が見える。
俊太郎だろう。
孝司は迷わずインターホンを押した。
インターホンが鳴ると同時に、人影は慌てた様子で部屋を出る。
すぐに、眼鏡をかけた俊太郎が出てきた。

俊太郎は呆然とひとみを見た。
「吉澤さん……」
孝司は吉澤の両肩を持って、俊太郎の前に突き出した。
眼鏡をかけている所を見ると、仕事をしていたようである。
「気付きませんでした?」
ひとみは俊太郎から視線を外した。
「逃げるなよ」
孝司は自分でも不自然なぐらい怒った口調でひとみに言った。
「それじゃあ、俺は失礼します」
俊太郎に背を向けて、孝司は海に歩きはじめた。
俊太郎はひとみに何をするだろうか。
孝司には見当もつかなかったが、そこまで考える必要は無かった。

残り少ない夏休みの間、吉澤親子は海に現れなかった。
来年の夏も来るだろうかと、孝司は思った。