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smile 投稿日:2002/08/03(土) 00:22

失恋してしまった……。
街は夕陽に照らされているはずなのに、僕の目には灰色にしか
見えなかった。

僕は近くにあった公園までやっとの思いで歩いて行った。
そして、噴水の縁のところによろよろと腰を下ろした。

自然と今日あったことがビデオのように頭に再現されてきた。

――放課後のことだ。
僕は授業が終わると一度家に帰り、運動部の練習が終わる頃合いを
見計らって学校に戻った。
何のために? あこがれの女の子に想いを伝えるためだ。
(ついでに言うと、勝負のとき邪念が湧き出てくるのを防ぐため、
 ベッドの下に貯蔵しているお気に入りのエロ本で2回オナニーした)

僕が学校についたときはもう練習が終わっていて、
野球部、バレー部、サッカー部その他いろんな部員たちが
家路につく時間帯だった。

その中に、わが敬愛する石川さんもいた。
石川さんはテニス部で、右手にカバン、左手にテニスのラケットを
持って校門を出ようとしていた。

石川さんが僕に気付いた。
「キスギくんじゃない。まだ帰ってなかったの?」
「う、うん。ちょっと図書館に行っててさ」もちろん嘘だ。
「そうなんだ。キスギくんの家あっちの方? あたしと同じだね。
 いっしょに帰らない?」
そんなに親しくない僕に対してもフレンドリーな態度を見せてくれる、
僕は彼女のこういうところを好きになったんだ。

帰り道で僕たちはいろんなことを話した。
クラスの友人についての噂、昨日あったテレビ番組のこと、
日体大出身の太った体育教師の変なクセ……。
僕のしゃべりはお世辞にも上手いとはいえなかったけど、
石川さんはちゃんと聞いてくれた。
そしてときどき笑った。
夕陽に照らされたその笑顔は髪の毛一本までとても綺麗で、
僕は自分の心臓の音が石川さんに聞こえてしまうんじゃないかと
心配しなくてはいけなかった。

石川さんとこれだけ長く話ができただけでも僕にとっては
すごく満足で、あと六ヶ月はこの思い出を反芻するだけで
つまらない日常を耐えれそうだったけど、それでも僕の目標は
あくまで告白だ。
これだけで「じゃあね」と帰るわけにはいかなかった。
チャンスは今しかないのだ。いけキスギ!
僕は思い切って口を開いた。

「いし…………かわ、さん?」
石川さんはなぜか下を向いていた。
それもすごく悲しげな様子で。
肩は震え、目にはうっすらと涙がたまっている。
僕は混乱した。
「どうしたの? 俺なんか傷つけるようなこと言った?」
「ううん、違うの」
「それならどうして……」
石川さんは何も言わず、僕の後方を指差した。
一組のカップルの姿が見えた。

そのカップルの男を見た瞬間、僕は悟った。
(あいつが……)
石川さんは男子生徒の間で人気があるので、
その情報は当然僕のところにも入ってきたりする。
さまざまな情報を総合すると、彼女はこれまで男とつきあったことはない。
ただ、長い間片想いをしているらしかった。
その想い人とはオレのことだ! と考えていたわけではもちろんない。
そうあってほしいとは思っていたが、それは太古の昔に絶滅したはずの
プレシオサウルスが多摩川にひょっこり出現するよりも低い確率だと
いうことは、さすがの僕にもわかっていた。
僕は彼女が誰かとつきあう前に、せめて気持ちだけでも伝えて
おきたかったのだ。
しかしこんなところで石川さんが好きな男を発見し、その上そいつが
女をつれているとは……。

石川さんは涙が止まらなくなっている。
涙は目からあふれ頬をつたい、夕陽でオレンジ色に染まったアスファルトに
次々と落ちていく。
どうする俺? どうやってこの状況を乗り越える?
しかし悲しいことに、僕には経験が圧倒的に不足していた。

「大丈夫だよ、石川さん」
「…………」
「あの女見た? すっげーブサイクだったぜ」
「…………」
「男の見る目がないんだよ」
「…………」
「むしろ運がよかったと思わなきゃ」
「わかったようなこと言わないで!」

僕がびっくりしてアホみたいに口を開けている間に(実際アホだったが)、
石川さんは涙もふかず走り去ってしまった。

――僕が失恋した経緯はざっとこんなものだ。

僕はまだ噴水の縁に座っている。
もう日が暮れようとしている。
石川さんの泣き顔が頭から離れない。
僕は石川さんに気の利いたことを一言も言うことができなかった。
情けない。本当に情けない。
(死ね俺。どこか遠いところにあるジジイババアしかいない農村で
 肥溜めに落ちて溺れ死ね)
あたりが夜の闇に包まれるのと並行して、僕の自己嫌悪はひどくなっていった。

「――なに暗い顔してんのよ」突然声がした。
僕は思わず顔を上げた。
目の前に、金髪の小さな女が立っていた。

「はっはーん、あんたふられたんでしょ」
女はにんまりと笑った。
「なんでそんなことわかるんだよ」
「あれちがった? あたしにはそう見えたんだけどなー。
 それもそうとう重症だと思うんだけど。ずーっとその子のことが
 好きで、でも臆病だから声をかけることさえできなくて、それでも
 思い切ってうちあけたけどうまくいかなかった。ちがう?」
「うぐ……」
僕は傷口に塩とタバスコとマスタードをグリグリ
すりこまれた気持ちでうめいた。

「やっぱり当たってんじゃーん。失恋なんてよくあること
 なんだからさ、元気出しなよ」
「わかったようなこと言うなよ」僕は知らず知らずのうちに
さっき石川さんに言われたセリフを吐いていた。
「そんなケンカ腰にならなくてもいいじゃん。よーし、おねえさんが
 特別に、キミの傷ついた心をなぐさめてあ・げ・る」
「え、おい、ちょっと……」

女は僕の手をつかみ、夜の街へと引きずって行った。

「……それで彼女に好きな人がいるってわかってさぁ」

女がつれて行ったのはどこにでもある居酒屋のチェーン店だった。
制服を着てるからやばいと言う僕を無視して、むりやり
連れこんだのだ。

「名前? 矢口真里だよ。矢口って呼んで」そう女は言った。
年は僕よりひとつ上らしい。
僕は目の前にいる人間が何者なのかを、もう少し詳しく
知っておきたかったのだが、矢口はそんなことどうでも
いいからさっさとあんたの失恋話を聞かせなさいよと催促した。

「なるほどー。それじゃあキミは好感度落としただけだったんだねー」
僕の話をひととおり聞き終えると、矢口はそう言ってケラケラと笑った。

元気なときなら殴りつけるか、殴るのを我慢できたとしても
怒って席を立っていただろう。
しかしそのときの僕には、話を聞いてくれる相手がいるというだけで
ありがたかった。
心の奥にあるもやもやしたものを全部ぶちまけたい気分だった。
どれだけぶちまけても楽になれないのは承知の上で。

「丸一年も想いつづけたのになぁ……」

僕はいま高校二年生なのだが、石川さんとは一年のころから
いっしょのクラスだった。
はじめて彼女を意識したのはその年の夏、僕が国語の授業で教科書を
忘れてきたときのことだ。
僕は当時すごく引っ込みじあんで(いまでもその傾向は完全には
抜け切れてないが)、クラスメイトに教科書を見せてもらうこともできず、
一人でオロオロしていた。
「教科書ないの? じゃあいっしょに勉強しようよ」
当時隣に座っていた石川さんは、そんな僕を見て机をくっつけてくれた。

もちろん石川さんが僕にだけ親切だったわけではない。
誰が教科書を忘れていても、自分から見せていただろう。
彼女は学級委員だったし、みんなに対して優しかった。
それはわかっていたのだが、彼女の整った横顔、茶に染まっているサラサラの髪、
品よく切られた形のいい爪、他の女子より少しだけ大きい胸のふくらみを
間近で見ていると、好きにならないわけにはいかなかった。

「なに物思いにふけってるのよ!」
矢口のイラついた声で我に返った。
「うじうじしてんじゃないわよ。あんたねえ、さっきから聞いてると
 別にふられたわけじゃないじゃん。石川さん、だっけ? その人に
 好きな人がいた、それだけでしょーが。彼女があんたのことをどう
 思ってるかは直接聞いてみないとわかんないでしょ。希望はあるんだから
 元気を出しなさいよ!」

目がすわっている。この女、酒乱だ。

「だけどさぁ……」
「あー、もういい! これ以上しゃべってもどうせ鬱になるだけなんだから
 これでも飲んで忘れなさい」
そう言うと矢口は手に持っていた焼酎のロックを突き出した。
悪いことに、僕もかなり酔っていて判断能力が失われていた。
僕はなみなみとつがれていた焼酎を受け取ると、そのまま一気飲みした。

それからのことを、僕は憶えていない。

……目覚めると、見なれた天井が視界に入ってきた。
僕は自分の部屋のベッドで寝ていた。
頭がひどく痛い。
(気持ち悪い……。オレゆうべ何やってたんだっけ?
 そうだ、酒を飲んだんだ。するとどうやって家まで帰ってきたんだろ?
 思い出せないや……)

胸がムカムカしてきたので僕は考えるのをやめた。
猛烈に水が飲みたい。
僕はベッドから起き上がろうとして体勢を変えた。

と、そのとき、

トン

何かが僕の左手に当たった。

それは柔らかくて、すべすべしていた。
(何だこれ?)
僕は自分がふれたものが何なのか確かめるため、かかっている毛布を
上げてみた。

「!!!!!!!!!」

僕が目にしたのは女の背中だった。
それも一糸まとわぬ真っ裸だ。通称マッパ。
上品に言うならばヌード。お下劣な表現を試みるならスッポンポン。
呼び方はなんでもいいがとにかく裸の女が僕の隣で寝てるのだ。
その女が誰なのか、後ろからでもはっきりわかる。
あの金髪、どう見ても矢口真里じゃないか!

「ん……おはよ、マサト」
なぜに下の名前で呼ぶのだ?
当然の疑問が僕を襲った。
(こ、これってもしかして……酔った勢いってやつですか?)


「あ、あのさぁ……」
僕はおそるおそるたずねた。
「オレたち……何もない……よね?」

「ひどい! 憶えてないのね!」
悲しみと怒りの入り混じった声で矢口は叫んだ。
「マサトの体、あんなに温かかったのに」

僕は意識が遠のいていくのを感じた。

「マサト」矢口は言った。「責任とって」
「責任……と申しますと?」
「ずっと矢口のそばにいて」
「……………………」

とんでもないことになってしまった。

(これは本当にオレの人生なのか? まだ夢の中じゃないのか?
 いままでオレは女にふられることはあっても、女の方から
 迫られるなんて絶無だったじゃないか。それが一晩でこの展開。
 ありうるのかこんなことが?
 待てよ……逆に考えれば、これはオレが幸せになる千載にして一遇の
 チャンスとも言えるぞ。それにこいつと過ごしているうちに、
 石川さんのことだって忘れることができるかもしれないじゃないか……)

そう思って見てみると、このちんちくりんな女がすごくいとおしく思えてきた。
よし、僕は心を決めた。

「矢口」僕は言った。「結婚しよう」
のちに僕はこの超絶に勘違いしたセリフを思い出すたびに、
恥ずかしくて頭を抱えてしまうことになる。

しかしこの童貞丸出しのプロポーズを聞いたにもかかわらず、
何を思ったか、矢口は目を伏せた。
もしかして僕をいさぎよくて男気のある男と思い込み、
頬を赤らめているのだろうか。
いや、それにしては少し様子がおかしい。

矢口は口を押え、体を震わせていた。

「……ククク」

そう、まるで……

「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

爆笑を我慢していたかのように……

「アハハハ、マサトおもしろーい」
「お前……オレをだましたのか?」
「だましてなんかいないよ。マサトの体が温かかったのはホントだもん。
 隣で寝てただけで、それ以上は何もしてないけどね」

「何もしてない、って……それならなんでハダカなんだよ!?」
「マッパは健康にいいのよ。知らないの?」

……絶句。
全身の力がぬけていく。

僕がへたりこんでるのもおかまいなしに、矢口は
「『ヤグチ、ケッコンシヨウ』だって。キャーハズカシー」と
騒いでいたが、その姿はまったく恥ずかしそうには見えなかった。

「……とにかく服を着てくれ」僕はそう言って床に散らばっている
服を拾い、矢口に向けて放り投げた。

「答えてくれ。なんでここにいるんだ? いったいお前は何者なんだ?」
「マサトが酔いつぶれてたから送ってあげたんじゃない。感謝されても
 問い詰められる筋合いはないわよ」
「そうだったのか……ごめん。でももう出て行ってくれ。オレ学校に
 行かなきゃいけないから」
「そういうわけにはいかないのよ」
「?」言ってる意味がわからなかった。

「矢口はね、家出少女なの。どこにも行くところがないの。そのことは
 昨日言ったはずだよ。そしたらマサトが『しばらくうちに泊めてやるよ』って
 言ってくれたんだよ。いま親が出張しててオレ一人だからって。マサト、
 酔っててなんにも憶えてないんだね」

僕は見ず知らずの人からいきなり「あなたは前世でサタンと戦った7人の戦士のうちの
ひとりです。ふたたび立ちあがるときが来ました。さあ共に悪を滅ぼしましょう」と
言われてとまどう女子中学生のような気分になった。

「オレが……言ったの?」
矢口はうなずいた。
「またオレをだましてからかってる?」
今度は首を振った。

「よろしくね」そう言って矢口はわざとらしく愛くるしい表情を作った。
もうどうすることもできない。

こうして、僕と矢口の奇妙な同居生活が始まった。

僕は矢口の同居をしぶしぶ認めた後、急いで準備をして学校に向かった。
まだ体内に酒が残っていて、一歩歩くたびに胃液がせり上がってくるような気がした。

そんな調子だから、授業なんてまともに聞けるわけがない。
僕は一日が終わるのを、じっと机に伏せって待っていた。

「ちょっといいかな?」話しかけてきたのは石川さんだった。
表情が暗い。
「私キスギくんに怒鳴っちゃったこと、ゆうべすごく後悔したの。
 キスギくんは私を元気づけようとしてくれたのに、私なんてこと
 しちゃったんだろうって……」

石川さんがあまりにもしおらしくなっているので僕はなんだか
申し訳ない気持ちになってしまった。
そもそも昨日僕の相手をしなかったなら、石川さんはさっさと
家に帰っていたはずだ。好きな男が女と歩いている姿を
見て、涙を流すこともなかっただろう。

「気にすることないよ」僕は言った。
「でも……」
「いいんだ。もう終わったことなんだから。それに、石川さんが
 暗い顔をしていることの方が僕には耐えられないんだよ。
 自分ではわからないのかもしれないけど、石川さんはこの学校の女神なんだぜ。
 たくさんの男が石川さんに憧れてるし、同じくらいたくさんの女が
 石川さんと友達になれればいいなと思ってる。
 見てるとわかるんだ、そういうことが。
 女神が暗い顔をしてたら学校全体が沈んじゃうよ」

石川さんはきょとんとしていたが、5秒ほどして僕の言っていることを
理解したらしく、にっこり微笑んだ。
「キスギくんって、いい人だね」

僕はいい人なんかじゃない。ただ時々わけのわからないことを口走るだけだ。

「おかえり」
学校から帰ると、当然のことながら矢口がいた。
僕は今日からこの女と同居しなければならないのだ。

矢口は僕に小さな尻を向けてベッド寝転がり、雑誌のようなものをめくっていた。
こちらを見ようともしない。
この家に転がり込んできたのはつい昨日のことなのに、たいしたリラックスぶりだ。
ある意味うらやましいが、こうなりたいとは思わない。

「ちょっと着替えてくるから」
僕がそう言って部屋から出ようとしたとき、背中で矢口が言った。

「へー、マサトってこういう娘がタイプなんだね」
何を読んでるのだろうと思ってよく見ると、それは僕がベッドの下に
隠していたはずのエロ本だった。

「ほら、このページ勝手に開くよ。『ペッティング娘。矢内真美』だって。
 この人ちょっと矢口に似てない?」
僕はあわてて矢口の手からエロ本をひったくり、ゴミ箱に投げ捨てた。

「あーん見せてくれたっていいじゃんよぉ」
「よくない! こういうのは女が見つけても知らんぷりしてるもんなんだよ」
「えーつまんなーい」
「そういう問題じゃない」

僕は冷たく言い放ちながら、机の引き出しに隠してるビデオも処分しなければと思っていた。