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コンボ 投稿日:2002/08/03(土) 23:17

――運命とか、そういうのって無いと思うんですよね。
   物事には絶対に理由があるんですから、運命、だけじゃ済ませられないでしょ。
   金森さんと矢口さんが付き合ってるのも理由があるでしょ?
   で、偶然と運命の何が違うかって言うと、それはその人の気持ち次第なわけですよ。
   運命で付き合ってるなんていうのは、偶然付き合ってるってだけなんですよ。
   あ、別に金森さんと矢口さんが偶然付き合ってるって言ってるんじゃないですよ。
   って言うか金森さん聞いてます?

親友というのが文字通り親しい友人というだけの意味ならば、大山は俺の親友である。
どうにか入試に受かって入ってきた時の最初の友人が大山で、今も付き合いがある。
付き合いがあるというよりも、同じクラブにいてそうそう付き合いを絶つわけにはいかないのだ。
その大山が昼休み、巨体を揺すらせてやってきた。
隣の教室から歩いてくるだけなのに、うっすらと汗をかいている。
歩くだけでシャツが汗で濡れるのだから、部活が終わった時の大山の胴着はびしょびしょになっている。
素振りをするだけで竹刀の柄が湿ることもたびたびで、大山に竹刀を貸すとすぐカビが生える。
「おい樋口」
弁当から顔を上げると、大山は丸い体のわりにすっきりした顔をほころばせていた。
「新学年早々暑苦しいな、お前は」
「俺がスマートだったら逆に恐いわ」
大山は空いている前の席に腰掛けた。
「嬉しそうだな」
「まあな。聞きたい?」
「全然」
弁当に目を落とすと、弁当箱をひったくられた。
「んなこと言ってると全部食うぞてめえ!」
「逆ギレすんなバカ。
 聞いてやるからさっさと言いなさい」
大山は満足げに弁当箱を置くと、机に肘までついて話しはじめた。

「お前、合コンしたい?」
「……どうしよっかな」
大山が合コンの話を取りつけてくるのは日常茶飯事で、何回か出席したこともある。
ただいつも途中でつまらなくなって抜ける。
「相手、女子高生」
「うちの学校?」
「違う。もっとハイレベルな感じ」
ここは中高一貫の学校で、隣の校舎には高校生の教室がある。
「いつ?」
「えっとな、明後日」
「明後日って私学大会じゃねえかよ!」
「あれ、そうだっけ?」
大山は中空を見つめてぼんやりと答えた。
「でも、私学って2時ぐらいで終わりだろ?
 合コン3時からだし」
「3時からなにすんだよ」
「向こうの校内コンパ」

「それって楽しいか?」
「さあ? 向こう年上だし、なんとかしてくれるだろ」
大山は至って楽観的に言った。
「防具とかどうすんの?」
「持って行っても大丈夫だろ。ちょっと邪魔だけど。
 で、行くの?」
明後日は大会以外予定は何も無い。
「考えとく」
「早く決めろよ。俺入れて4人しか行けないからな」
大山は重たそうな体を上げると、ゆっくりと教室を出ていった。

「嫌だなあ……」
思わず言葉が口を突いて出た。
別にいじめられてるわけじゃないし、はぶられてもない。
無愛想かもしれないけど友達だって人並みにいる。
それなのに、先生は過剰な反応をする。
放課後に男の先生と二人っきりで暗く話し合うことが私にとって迷惑なんだということに気付いていないようだ。
重い足取りで職員室へ歩いていると、後ろから声がした。
「あれ、あさ美職員室なんか行くの? なんかやった?」
振りかえると、愛ちゃんが私服で階段に立っていた。
「また先生に呼び出されちゃって……」
「またいじめられてるとか言われちゃったの?」
愛ちゃんは苦笑しながら階段を下りてきた。
「何しに来たの?」
「OBとしてね、合唱部の面倒見に来てあげたんだけど。
 今あっちで勝手に練習してる」
話していると、ドアから先生が顔を出した。
「紺野、何やってるんだ。
 早く入れ」
先生が現れると、愛ちゃんは手を振って階段を下りて行った。

林先生の机に椅子が二つ置いてあった片一方に座る。
「で、どうなんだ」
林先生はもうひとつの椅子に腰掛けながら口を開いた。
「どうって、何がですか」
「友達と上手くいってるのか」
「上手くって……どういうことを上手くいってるっていうんですか」
20代の林先生は、腕組みをして考えはじめた。
まだ5月にもなってないのに、早くも呼び出された。
この先生はどうも教師の仕事を勘違いしてるらしくて、何かと生徒に干渉したがっている。
「例えば仲の悪いやつがいないとかさあ、なんか毎日学校が楽しい、みたいな」
「別に……辛くもありませんけど」
林先生は短髪の頭をかいて、しばらく黙った。
早く帰りたいけどそうも言えない。
ただじっとしてるだけだった。

「今のって、高橋だよな」
林先生が去年愛ちゃんの担任だったと聞いたことがある。
「そうです」
「高橋と仲良いんだ」
「はい、まあ」
どうでもいいことから聞いて、コミュニケーションを計ろうとしてる。
警察の取り調べじゃないんだから。
「……去年までは高橋がここにいたからいいけど、もう高橋は高校に行ったからな。
 学校で高橋に会えないのは分かるけど……」
「高橋さんに頼ってなんかいません」
林先生はどこか誤解したまま話を進めている。
「私は自分のことは自分でちゃんとやってますから。
 心配してもらわなくても大丈夫です」
「そうか……悪かったな」
「帰っていいですか? 私やることあるんで」
林先生の返事を背中で聞きながら、勝手に椅子を立った。

放課後、部室に行くと辻がいた。
辻は俺と同じ中三の女子だが、剣道はからきし初心者である。
大山がいうには女子が半ば強引に引っ張りこんできたらしいが、本人も結構乗り気で練習している。
「あ、樋口くんちょっと聞きたいんだけど」
辻は竹刀を片手に椅子に座っていた。
「それ俺の椅子なんだけど」
「いいじゃん、別に。
 それより中結ってどうやって結ぶの?」
「そこに用具マニュアル置いてあるからそれ見とけ」
「やーだ、冷たいなー」
辻は笑いながらマニュアルを手に取った。
「って言うかここ男子部室だし。
 女子部室行けよ」
「向こうまだ誰も来てないんだ」
適当な椅子に腰掛けると、部室のドアが開いた。
「ちゃーす」
高三の金森さんは後ろ手にドアを閉めると、その場で立ち止まった。
「あれ……邪魔しちゃった?」
「何言ってるんですか」
金森さんはにやにやと笑った。

「なんで辻ちゃん来てるの?
 女子の方に皆来てたけど?」
「あ、それじゃ失礼します」
辻は竹刀を持って部室を出て行った。
金森さんはロッカーに鞄を放りこんで、傍らの椅子に腰掛けた。
「中学の私学大会って明日だっけ?」
「はい」
金森さんは高校部長の割に大会や昇段審査のことをほとんど知らない。
自分の出る大会じゃなければ興味は無いのだ。
「辻ちゃんは出ないよね、今回は」
「まだ入部して一週間しか経ってないじゃないですか」
「でも女子の方って人数少ないしさあ。
 出すだけでも出してみれば?」
「女子の方は矢口さんが仕切ってるじゃないですか。
 僕らが口だしできませんよ」
「俺が言っとく。
 って言うかお前な、その矢口さんと付き合ってるのが誰だと思ってんの」
副部長の矢口さんは金森さんと付き合いが長い。
付き合いはじめたのが中二の夏で、それが高三になった今まで続いているらしい。
彼女自慢をしたがるのが金森さんの癖で、矢口さんの話になるとなかなか止まらない。
金森さんと二人っきりになると、恋愛について語らなければならないというのは決まりごとだった。

少しして大山が来た。
間の悪い時に来てしまった、という顔をする。
「大山、ちょっと聞きたいんだけど、辻って上手い?」
辻には同じ学年の中三が教えることになっていて、放任主義の金森さんは当然辻の腕前など知らない。
「ほとんど女子がやってるんで、ちょっと分からないです。
 そんなに下手には見えませんけど」
「じゃあさ、今度の私学大会に出しても良くない?」
「それは……やばいんじゃないですか。
 面の付け方も知らないですよ、多分」
「マジで?
 何やってんだよお前ら。今年は女子団体出られないじゃん」
金森さんは言葉の割にあっさりと言った。
大山は申し訳なさそうに巨体を縮めて、ロッカーまで歩いて行った。

鍵っ子も、今年で9年目になる。
小学一年生から、「ただいま」と言ったことがほとんど無い。
一人で家にいてやることもあまり無いし、さっさと私服に着替えて空手の胴着をリュックサックに詰めこむ。
さっき開けたドアはまたすぐに閉まる。
自転車の前かごにリュックを押しこんでペダルを漕ぎ出すと、なぜかさっきの林先生のことを思い出した。
熱血教師気取りの勘違い男。
林先生に対する正直な感想はこんなところだ。
生徒の世話を見るのがそんなに楽しいのか、と思う。
大したことをできると思っているのがそもそもの間違いなのに。
ぼんやりと考えていると、目の前に電柱が突っ立っていた。
慌ててブレーキをかける。
「危なかった……」
思わず独り言を口走った。
林先生のことを考えるからこうなるんだ。
できるだけ自転車の運転に集中しよう。
そう思っていると、また電柱に向かって走っていた。

自転車で10分も走れば、道場に着く。
道場と言っても普通の民家に広い板張りの一室があるだけで、十数人の生徒がそこで狭苦しく稽古をする。
5時すぎに、道場に着いた。
「失礼します」
インターホンは鳴らさずに、こうして玄関から入って行くのがここで決められている。
靴を揃えて脱ぐと、おばさんが玄関に出てきた。
「ああ、あさ美ちゃん。
 最近愛ちゃん来てないけど、どうかした?」
「さあ……
 多分クラブが忙しいんだと思います。
 今度会ったら訊いてみますね」
おばさんにお辞儀をして道場をのぞくと、小学生が体操を始めていた。
先生はまだいない。
小学生の横を通り抜けて女子更衣室に入る。
更衣室と言ってもおばさんの部屋を借りてるだけで、ロッカーなんかは無い。
すぐに胴着に着替えて板間に出ると、スーツ姿の先生が帰ってきたところだった。

約2時間の練習が終わると、女子更衣室はすぐに一杯になる。
5人も入れば目一杯になるような部屋だから、着替えは早い者勝ちになる。
今日は少し遅れたが、それでもなんとか着替えられた。
部屋を出ようとすると、後ろから声をかけられた。
「あーん、ちょっと待って」
私の他には高校生の石川さんしかいない。
道場に通っている女性と言えば小学生がほとんどで、同年代の石川さんとはそこそこ仲が良い。
華奢な石川さんは護身のために空手を習いはじめたらしいが、どうもたくましくなる兆しが無い。
いつまで経っても細身のままで、筋肉がついているのかさえ疑問だ。
私より先に始めたらしいが、私と同じ茶帯の腕前で止まっている。
「一緒に帰ろうよ」
「分かってますって」
私も俊敏な方ではないと思うけど、この人には勝っていると思う。
スポーツは得意だし、何よりこの人の運動神経はひどい。
石川さんはもたつきながらようやく着替え終えた。
二人でおばさんにお辞儀をして家を出て、石川さんも私と同じように自転車にまたがる。
漕ぎ出しながら、石川さんは話しかけてきた。
「紺野って好きな人とかいる?」
「いません」
「やっぱり……しかも即答だし……」
「石川さんはいるんですか?」

「そりゃまあね、好きな人ぐらいいるけど」
石川さんは妙に嬉しそうに答える。
「聞きたい?」
「そんなわけないじゃないですか。
 覚えるぐらい聞きましたし」
週に一回のペースで、石川さんとはこういうやりとりを繰り返す。
「やっぱりね、好きな人がいるってのはいいよ、マジで。
 なんかものすごく世界が明るく見えるから」
聞きたくないと返事したのに、喋りはじめた。
「私この間思ったんだけどね、紺野は出会いを避けすぎだと思うの。
 もっと色んな所に出たほうがいいんじゃない?」
「でもクラブには入れませんし」
「なんか友達に連れて行ってもらうんだって。
 クラブの大会とか、誘われても断ってるんじゃない」
「だって関係ありませんし」
「ほーらやっぱり。そういう所に出会いがあるんだって」
なぜか勝ち誇った顔をして石川さんは言った。
「それじゃ、またね」
石川さんは嬉しそうに角を曲がっていった。

「ちょっと待って、樋口くん」
練習が終わって部室に帰る途中、辻が話しかけてきた。
「あのさ、大会って明日だよね」
「明後日」
「あ、そうか。
 それでさ、私もその大会行きたいんだけど」
「いや……普通に来てもいいけど」
「マジで?」
「マジでって言うか部員は基本的に強制参加」
「うっそお、聞いてないよ。
 それじゃ、取り合えず行っていいんだ」
「まあ」
「サンキュー、じゃね」
辻は女子部室まで小走りに走っていった。
「お前は合コンの前に彼女を作るつもりか」
後ろから、大山の顔がぬっと突き出てきた。
「何で?」
「辻とカップルみたいにに楽しげに歩いてたから」
「大会の日程訊かれただけだって」
大山はにっと口を開いてくつくつと笑った。
「お前、女子がわざわざ男子に訊くか?」
「……辻が男子とか女子とかに気使うとは思えないけどな」
「ま、それもそうか」
いつでも能天気に見える辻が男子とか女子とかいうことにこだわるとは思えなかった。

家に帰って真っ先にすることは、携帯の確認である。
一応、校則で学校に携帯は持ちこめないことになっているから、来たメールは家で確認するしかない。
おふくろに晩飯までは時間があると言われて、自分の部屋で携帯を開いた。
大山から一通だけ来ていた。
さっき来たばかりだった。

明後日の合コンの件は決まったか?
お前以外のメンバーは決まったから、さっさと返事しろ

明後日の合コンなど、すっかり忘れていた。
――俺がいなくても誰か誘うだろ。
面倒くさくなって、すぐに大山に返事を送った。

悪いけど合コンの件は断る
せいぜい頑張れ

「淳一郎、ご飯よ」
階下からおふくろの声がした。
階段を下りると、丸いテーブルにはクリームシチューが並んでいた。
一週間前もクリームシチューだった気がする。
親父はまだ帰っていない。
「明後日は弁当いるの?」
「いるいる。4時ぐらいに帰ってくる」
おふくろは先に食べかけていた。
俺も席に着いて食べはじめる。
しばらく沈黙。
食事中にテレビはつけない。
元々親父の決めたことだが、すっかり俺の習慣になっている。
「そういえばさ、金森さんって彼女いる?」
「いきなりなんだよ」
おふくろには金森さんの写真を見せたことがあって、金森さんのことは知っている。
「いや、この間ダイエーに行ったら彼女と歩いてたから。
 ちっちゃい人だったけど」
「ああ、それは彼女。
 高校の副部長」
「部長と副部長で付き合ってるんだ」
おふくろはさして興味も無いような顔で頷いた。

家にはお母さんが帰っていた。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
お母さんは久しぶりに、私の目の前で料理をしている。
クリームシチューを煮こんでいるらしい。
「今日はえらく早いね」
「今日はどこも〆切り無かったし、昨日死ぬほど残業したから」
文芸雑誌編集者の仕事は忙しい。
小さい頃、一度頼んで会社に連れて行ってもらったが、朝から晩までめまぐるしく人が動いていた。
会社で泊まってくることも珍しくない。
お母さんは両手にシチューの皿を持って、テーブルまで運んできた。
私は先に席について、シチューの来るのを待っていた。
テーブルに二人っきりで向き合う。
お互いに、静かに食べはじめた。
四角いテーブルに、椅子は全部で3つある。
ひとつはいつも空いている。
たまにお母さんが服を脱ぎ捨てたりしてるけど、かれこれ何10年以上も空席のままだ。
この間、お母さんが離婚した理由を聞いた。
その時から編集者をやっていたお母さんは、忙しい身でとても私の相手ができなかったらしい。
お父さんは、いつでも家にお母さんがいることを望んだ。
けど、お母さんは仕事をやめようとしなかったらしい。
結局、私が幼稚園の年長の時に離婚した。
その時から、私は鍵っ子になった。
離婚して、前より構ってもらえなくなった。

「そういえばさ、あさ美は携帯いらないの?
 あんた欲しいって言ったこと無いけど」
「いらない。あっても使わないし」
「あれよ、迷惑だと思ってるんだったら遠慮とかしなくてもいいから」
「ほんとにいらないんだって。メールとか面倒くさそうだし」
「まあ、持っててもアナログ人間のあさ美には使いこなせないか」
お母さんはスプーンを動かしながら言った。
「使えそうだけど、使わないの。
 いつでも連絡とってなきゃいけないような友達もいないし」
「寂しい子だねえ。彼氏ぐらい作ったら?
 そしたら携帯欲しくなるよ」
「彼氏もいらない」
自然と、スプーンを口に運ぶ回数が増えてきた。
こういう話題は嫌だ。
「珍しい……好きな人ぐらいはいるんでしょ?」
「いない。
 そんな素敵な男子なんていないの」
「ある程度の妥協も必要よ」
お母さんはお代わりに席を立った。
妥協しすぎて結婚したから離婚したんじゃないの、とは言えなかった。

お母さんは私より先に寝た。
洗い物を済ませると、「明日早いから」と言って9時頃に寝てしまった。
たまに早く帰っていても、私がお風呂からあがる頃にはもう布団の中にいる。
私は、それから宿題を始める。
友達は毎日「宿題が多い」と言っているけど、私にはそうは思えない。
むしろこんな勉強量で足りるのか、とさえ思う。
今日は英語だけだ。
ものの30分もあれば終わるのに、これのどこが多いんだろうと思う。
案の定、宿題は20分で終わった。
教科書を閉じて、さっさと明日の用意を済ませる。
――そう言えば、英語って林先生だな
また、夕方の職員室を思い出してしまった。
――何考えてるんだか、あの人は
溜息をついて、リビングに出た。

次の日の放課後、男子部室にはまた辻がいた。
うろたえた顔で椅子に座っている。
「あっ、樋口くん!」
辻は立てかけてあった竹刀を手にとって、駆け寄ってきた。
「何かあった?」
「これ、使えないよね」
辻は持っている竹刀を突き出した。
中結が外れている。
真ん中辺りで竹刀をまとめている紐が、緩んで外れただけだ。
どうやら昨日は結局中結を締められなかったらしい。
「これって、中結が取れてるだけだろ。
 結べば使えるって」
「でも、なんか柄の所も……」
辻は泣きそうな顔で柄を指差した。
柄革を固定している紐も、外れていた。
「これって、壊れちゃったの?」
辻は懇願するような視線を向けた。

「……俺は直せないけど、金森さんなら結び方知ってると思う」
「今日、金森さん来るかな?」
「……さあ?」
金森さんは、気が向かない時はクラブに来ない。
実質、副部長の矢口さんが部活を仕切ってることのほうが多い。
中結の結び方も、柄革の紐の結び方もマニュアルを見れば載っているだろうが、時間がかかりそうだ。
「取り合えず今日は俺の貸してやるよ」
「え、ほんと、良いの?」
「終わったらすぐ返せよ」
竹刀袋から一本取り出して、辻に渡してやる。
「つばは自分の付けろよ」
「うん、ありがと」
辻は小声で礼を言うと、男子部室を出ていった。
「アツアツだな」
辻が出ていったドアから、入れ違いに大山が入ってきた。
「密室に二人っきりですか」
「あのな、お前どう考えても俺と辻が……」
「はいはい、分かったって。誰にも言わないって」
大山は俺の話を遮って、得意げに部室の奥へ歩いていった。

練習が終わって剣道場を出ると、申し訳なさそうな顔をした辻が近寄ってきた。
「何?」
「あの、ほんとごめんね……これ」
辻は貸した竹刀を両手で持っていた。
「面打ってたらささくれちゃって……」
話を聞くと、面をつけた女子部員に面打ちの練習をしているうちに、竹刀がささくれたらしい。
竹刀のささくれというのは本当に危険で、誤ってこれが相手の目にささると、とんでもないことになる。
そういうわけで、ひどくささくれた竹刀は捨てるしかない。
「ほんと、ごめんね……」
オーバーなくらい辻が謝るので、こっちが途惑ってしまった。
「いや、これぐらいのささくれなら大丈夫だって。
 これ結構使ってたし、そろそろだったんだろ、多分」
務めて明るく、竹刀を受け取った。
――替えの竹刀あったよな、確か。
「ほんとにごめんね……」
辻は消え入りそうな声を出した。
なんとなく居づらくなって、無意味に口笛を吹いてその場を離れた。

替えの竹刀は一本しかなかった。
明日は大会だ。
大会には、使用する竹刀と予備の竹刀との、合わせて二本の竹刀を持っていかなくてはならない。
仕方ないので、傘立てに差してある竹刀を手に取った。
傘立てには時々使えなくなった竹刀もあるが、竹刀袋に入らない竹刀が山のように差さっている。
柄に名前を書いていないと、無断で拝借されることもある。
今はまさにその時で、俺は柄が綺麗なのを一本選んだ。
長さは合っている。
ささくれた竹刀は傘立ての中に突っ込んで、手に取った竹刀を代わりに袋に入れた。
明日は駅前に集合だから、竹刀と防具はひとまず家に持って帰らなければならない。
竹刀を防具袋の紐に通して肩に担ぐと、ずしりと重い。
長時間持っていると肩が痛くなってくる。
肩の痛みに耐えて、なんとか担いだ。
このまま家まで帰らなければいけないと思うと、気が滅入った。

「おねがーい、誰か来てー」
昼休み、教室中を小川麻琴が歩きまわっていた。
すれ違う女の子にかたっぱしから声をかけている。
「どうしたの?」
話しかけると、びっくりしたように振り向いた。
「あっ、紺ちゃん、ちょっとお願いあるんだけど」
まこっちゃんはいつもは見ないぐらい、うろたえている。
「あのさあ、明日うちのクラブで大会あるんだ。剣道部の」
そういえばまこっちゃんは剣道部だったと思い出す。
「応援来てくれない?」
「応援?」
まこっちゃんは眉をハの字にしていた。
「明日大会があるんだけど、忙しいとか言って誰も応援来てくれないんだ」
「応援とか別にいらないんじゃないの……」
「いや、私も去年まではそう思ってたんだけどさあ。
 この間応援無しで、始めての大会に出たんだ。
 そしたら、向こうは応援一杯で、こっちは全然いないわけよ。
 めちゃくちゃ寂しいよ、マジで。
 だからね、あんまり応援を甘く見ると結構痛い目に会うわけよ」
まこっちゃんは一気にまくしたてると、私の手を握った。
「寂しいから、来て」

昨日石川さんが言っていたことを思い出す。
「紺野は自分から出会いを避けてるんじゃないかな」
――明日暇だし、いいか。
「……分かった、行く行く」
「マジで?」
途端にまこっちゃんの顔がぱっと明るくなった。
「マジで来てくれるの?」
「明日暇だしさ、遠くないんでしょ?」
「近い近い、ヤバ近い。
 やった、ほんとありがとね。
 それじゃ、私他の人も誘ってくるから」
まこっちゃんの口調は一変していた。
「それじゃ、朝の8時に駅の改札で」
そう言い残して、まこっちゃんは軽い足取りで歩いて行った。
――安請け合いしちゃった?

「剣道とか見たこともないんですよ」
「あれはね、やったことない人は見てても全然面白くないよ」
空手の帰り道、石川さんは自転車を漕ぎながら器用にこちらに振り向いた。
「まあ、せいぜい良い男でも見つけてきな」
そう言いながら石川さんは人差し指を立てた。
「見つけたら、まず垂れの所に名前と学校が書いてあるから、それを見る」
「……石川さん、剣道の大会に行ったことあるんですか」
「一応ね。良い男は少なかったけど。
 あと勘違いしやすいんだけど、強ければ良い男ってわけでもないから。
 むしろ格好良くないことの方が多い」
石川さんはうん蓄のように話し続けた。
「見つけたら、それとなく接近して、それとなく応援する。
 自分の所よりもその相手の応援をするのよ。
 そこからさらに接近するんだけど、紺野には無理かな。
 まあ、そこの学校の知り合いを作ることから始めたほうがいいよ」
言いたい放題言うと、石川さんは角を曲がって行った。
残された私はどうしたらいいか、しばらくその場で止まった。

大会当日は早起きすることに決めている。
その方が体が動くのだ。
しかし、5時には起きるつもりが目が覚めたら6時を回っていた。
集合にはかなり間があるが、相当後悔した。
――もっと早く寝ればよかったかな。
手早く朝食を食べて、出かける準備を始めた。
遅く起きたことで、自然と焦ってしまう。
7時半になったので、竹刀と防具袋をつかんで家を出た。
空気はまだ少し冷たい。
面倒くさくて普段はつけないバッジが、朝日に反射して光っている。
8時になる前に、駅に着いた。
部員はあらかた来ていたが、辻を始め女子が数人いない。
8時を少しすぎた辺りで、甲高い声が聞こえてきた。
「すいませーん、遅れましたー」
残りの女子が固まって、小走りでやって来た。
「反省の色無しだな」
俺より先に来ていた大山が、呆れ声を出した。
事実、女子たちは笑顔で顧問に謝っていた。

会場までは、30分ほど電車に乗って行く。
邪魔っけな物を持った剣道部員がラッシュ時に大量に乗りこむため、ただでさえ狭苦しい車内は身動きが取れなくなる。
女子は、電車の中でも喋りつづけていた。
人が多い割に静かな車内では、喋り声がよく響く。
「去年個人でベスト4入ったのって足立くんだっけ?」
「そうそう。ヤバかっこいいよね」
女子は去年の私学大会について盛りあがっている。
「え、だれだれ、足立くんって」
去年の私学大会の頃はまだいなかった辻が、大声で訊いた。
「去年ね、中二で個人の部に出場して、ベスト4に入った人」
「その人ね、ヤバかっこいいの、マジで」
周りの女子は熱っぽく説明した。
「そうなんだ」
辻は肩透かしを食らったかのように答えた。
「ののもね、見たらビックリするぐらいかっこいいよ」
「ふうん」
辻は気の抜けた返事をした。

会場は、駅を降りてすぐの高校の体育館だった。
女子達は改装してるとかなんとか言って、まだ盛りあがっている。
俺達と同じような格好をした中学生が、どんどん校舎に入っていく。
それを見て、顧問が慌てて入り口まで行って申し込みを済ませた。
体育館は校舎の中にあり、かなり立派だった。
応援用、準備用の二階席もある。
だだっ広い館内では、すでにアップを始めているところもあった。
「ちょっと遅れたかもしれん」
顧問は部員を集めてそう言うと、自分達の二階席と女子更衣室を指差して、役員席へ走って行った。
人手が足りないらしく、顧問は大会の役員をやることになっている。
中学部長の服部が先導して、二階へ上がった。
切れ長の目をしている服部は、いかにも知的な顔立ちだ。
てきぱきと部員全員を誘導して、自分もさっさと着替えを始めた。
女子は更衣室があるが、男子は応援席で着替えなければいけない。
俺が胴着を取り出す頃には、服部は着替え終わっていた。
「それじゃ、先に下降りてるから」
そう言い残して、服部は防具と面を持って下へ降りて行った。
大山は服部のことを人嫌いだと言っているが、俺は結構服部の人柄を気に入っている。
なあなあのリーダーよりはよっぽど良かった。

8時に駅前に集合だったが、7時半に着いた。
誰も来てない。
改札の横に立っていると、通勤の人達が猛スピードで通り過ぎて行く。
たまに体が当たったりするが、向こうは気に留める余裕も無いらしくさっさと行ってしまう。
50分になって、やっと二年生の子が来た。
それからは一分おきにどかどかとやって来て、8時に顧問が来た時には、全員揃っていた。
結局、応援に来たのは私一人だけだった。
まこっちゃんが言った通り、会場はヤバ近かった。
電車で一駅。
駅から徒歩5分の高校が会場だ。
8時10分には会場に着いてしまった。
校内の体育館でやるらしく、まこっちゃんたちと喋る時間もほとんどないまま、顧問はどこかに消えた。
「先生、どこ行ったの?」
「大会の役員なんだって。人手不足だから」
まこっちゃんはぶっきらぼうに答えた。
試合前で緊張している。
それからはできるだけ黙って、応援席まで行った。
出場する皆は女子更衣室に向かったけど、私は着替える必要が無い。
応援席でじっと座っていると、着替えている男子が振り向いた。
「あのさ、紺野がいると着替えにくいんだけど……」

男子に言われて、応援席の後ろの通路をうろつくことにした。
どこも同じように着替えている。
時々男子の顔を盗み見ても、今ひとつぱっとしない。
応援席を見物していると、前から防具を一通り着けた人がやって来た。
石川さんに言われた通りに垂れに目を落とすと、「S中 樋口」と刺繍してあった。
樋口さんは細い通路をどんどんと進んでくる。
横に避けようにも、他の学校の応援席に踏みこんでしまう。
向こうもそれに気付いているようで、立ち往生してしまった。
仕方なく、私が無理矢理樋口さんの横を通った。
樋口さんもできるだけ壁に引っ付いてくれる。
すれ違う時、息が吹きかかるくらい顔が近くに来た。
そんなにごつい感じの顔じゃない。
どちらかといえばそうかもしれないけど、イメージしていたほどの剛健さは無い。
いつまでもじろじろ見ていると変なので、すぐに目を逸らした。
完全にすれ違って、お互いに逆の方向へ歩いていっても、頭の中にはさっきのアップの顔がよぎる。
――S中の樋口さんか……
思わず、S中の応援席を目で探す。
目で探して分かるわけがないけど、誰かの垂れに書いてないかと探した。
前も見ずに歩いていると、誰かにぶつかった。
「あ、すいません……」
「紺ちゃん、何やってんの?」
白い胴着姿のまこっちゃんだった。

「これ、紺ちゃんにも一応配っとくね」
プリントを2枚渡された。
「それじゃ、上から応援よろしくね」
まこっちゃんは言葉こそ軽かったが、顔は緊張でこわばっていた。
たまたま空いていた応援席に後ずさると、皆申し合わせたようにこわばった顔で歩いて行った。
応援席に帰ると、男子の姿は無かった。
会場のどこかで練習を始めているんだろうが、人が多すぎて探す気にならない。
さっきもらったプリントを見てみた。
一枚は団体のトーナメント表。
13:00開始と大書してある。
自分の学校を探した後、思わずS中の名前も探してしまった。
うちが準決勝まで行けば、S中と当たる。
でも、うちの剣道部のレベルを考えると一回戦も危うかった。
去年はボロボロだったらしい。
もう一枚は個人戦のトーナメント表。
9:30開始と書いてある横に、大きなトーナメント表がある。
100人ほど参加するらしく、優勝するには6、7回は勝たなければいけない。
うちの選手を確認した後、またS中の選手も探してしまった。
選手名の下に学校名が書いてあって、S中からは男子と女子が5人づつ出るらしい。
樋口さんの名前もあった。
なんだかその名前を見つけると、少し嬉しくなった。

「さっきの子、可愛くなかった?」
下に降りると、すぐに大山が話しかけてきた。
「さっきの子って?」
「さっきお前がすれ違った子」
「ああ、すれ違った子か……」
「お前だけあそこの通路行ってさ、マジで羨ましかったよ」
確かに、顔が触れるかと思うほど近付いた。
向こうの顔をじろじろ見る気は無かったが、思わず目が合ったのだ。
眠たそうな目をしていたことだけは覚えている。
「今日の合コンパスして、あの子の所と合コンしてえな」
大山は溜息混じりにそう言った。
「でも、名前も学校も知らないんだろ?」
「調べればいくらでも分かるって」
小手と面を置きながら、自信ありげに大山は答えた。
「あれだけ人目につく子なら、すぐ探せるし。
 制服だったから応援で来たんだろ、多分。
 応援席探したらすぐ分かるって」
大山はすでに知り合いになったような口ぶりだった。

アップは、服部が指揮を取った。
あっさりと素振りを済ませて、面をつける。
俺達が面をつける頃には体育館はほとんど一杯になっていて、隅で練習するしかなかった。
面打ち、小手打ちなどの基本稽古を一回づつやらせて、後は地稽古だった。
地稽古とは、3分ぐらいで止めの合図がかかるまで試合の要領で立ち会う稽古で、要は試合と同じだ。
5、6回地稽古を済ませた所で、アップを止めるよう放送があった。
試合の準備をはじめるのだ。
服部は部員全員を元の位置に戻して、面を外させた。
号令と共にほとんどの部員が立ちあがって、応援席に戻った。
自分の試合の時以外は、応援席に戻って水分補給したりしても構わない。
俺も応援席に戻って、個人戦の順番を確認しておいた。
Dコートまであるうちの、Cコートの5試合目だ。
出番までは時間がある。
ペットボトルに口をつけながら、横目で大山の様子を見た。
案の定、俺がすれ違った相手を探しているらしい。
懸命に応援席に目を凝らしている。
しかし、今は人が多くてなかなか見つからないらしく、苦戦していた。

今アップで使ったのは替えの竹刀で、竹刀袋にはもう一本竹刀が入っている。
念のため、アップで使ったほうの竹刀を点検することにした。
中結はしっかり締まっている。
右手で柄を握って、刀身を調べてみた。
「チッ……」
思わず舌打ちを打った。
目立たないが小さなささくれができていたのだ。
やすりか何かで削れば問題無いが、今日はそういう道具を持ってきていない。
仕方なく、もう一本の竹刀を使うことにした。
ぱっと見て、紐は締まっている。
昨日持ってきたばかりの竹刀にささくれは無いと思うが、一応点検してみる。
使いこんでいるみたいだが、ささくれは無かった。
大山はまだ応援席を探しているが、目が痛くなってきたのかしきりにこすっている。
「お前、2試合目だろ」
「あと何分ぐらい?」
「始まるまで5分ぐらい」
「マジかよ……」
大山は重い体を揺すらせて、嫌々下に降りて行った。

本格的に練習が始まったようで、竹刀を打つ音が大きい。
体育館の中は鋭い音で一杯になってきた。
アップを止めるよう放送がかかると、喧騒はすっと引いていく。
しばらくして皆が帰ってきた。
男子と女子が腰を下ろすと、応援席は一杯になった。
剣道特有の汗臭さがむっと匂う。
私の左隣に、一際むさくるしい人影が腰を下ろした。
垂れには「Y中 原田」と書いてある。
「あれ、なんで紺野いんの?」
「応援」
原田くんは喋りながら2リットルのペットボトルを鷲づかみにすると、一度に半分ほど飲み干した。
私はどうもこの豪快さが苦手で、原田くんとはほとんど口をきいたことがない。
別に嫌いなわけでもないけど、私には豪快すぎて接しにくい。
「来てんの、お前だけ?」
「まあ、そうだけど」
「ふーん」
原田くんは低い地声でうなずく。

「それじゃまあ、行ってくるわ」
原田くんは竹刀を片手に立ち上がった。
広い肩を左右に揺らせて、応援席から通路に出て行く。
「紺ちゃん、ちょっと」
振り向くと、まこっちゃん達女子が皆こっちを見ている。
「悪いんだけど、私たちの竹刀見ててくれない?」
「別にいいけど……どこ行くの?」
「ん、ちょっとね。
 それじゃ、頼んだね」
軽く手を振って、揃って通路に歩いて行った。
ちょっと疎外感があったけど、私だけ部員じゃないんだから仕方ないのかもしれない。
女子部員だけで何かあるんだろう。
まこっちゃんたちを目で追ってみると、話しながら応援席の後ろを歩いている。
たまに嬉しそうな声が上がる。
そうやって二階席を半周ほどした辺りで、全員立ち止まった。
離れているから顔は見えないけど、何かはしゃいでいる。
ぞろぞろと応援席に下りて、誰かに話しかけた。

通路の方が騒がしくなってきた。
隣の応援席から女子の叫び声が聞こえる。
「あれ、足立さんじゃない?」
足立誠治がいるのか。
横を見てみると、確かに足立が座っている。
女子が電車で話していた例の足立だ。
優勝候補の筆頭なんだから、女子に騒がれるのも無理はない。
「足立くんって、あれ?」
制服姿の辻が訊いてきた。
「あれ」
「そうなんだ。確かに格好いいね」
足立の横顔は確かに端正で、これで剣道ができるならもてるに違いない。
隣の応援席を眺めていると、服部がトーナメント表を片手に近付いてきた。
「お前、3回勝ったら足立と当たるぞ」
「個人戦で?」
「おう。3回ぐらいなら勝てそうじゃないか?
 因縁もあることだし、頑張れよ」

去年、中2で個人戦に出た時に最初に当たったのが足立だった。
意気込んだが、開始一分で面を二本取られて終わった。
あまりにもあっさり終わって、悔しさも感じ無かった。
時間が経つにつれて、隣の応援席には人が増えていく。
胴着を着た女子の一団が、足立に話しかけた。
「すいません、足立さんですよね」
すぐ隣だから、会話がそのまま聞こえる。
「そうですけど」
足立は低めの声で答える。
「あの、Y中の小川って言います」
「どうも、初めまして」
手慣れた口調で答えた。
「Y中って去年団体でベスト4入ってましたよね」
「あ、はい、そうです」
小川と名乗った女子は、いやに緊張して答えた。
「それじゃ、頑張りましょう」
「あ、はい、分かりました」
多少意味不明のやりとりを終わらせて、足立は席を立った。
辻はつまらなそうに見ていたが、足立が立つと目線を体育館に向けた。
「なんか演技くさくない? あの人」
同感だった。

第一試合が始まった。
ぱっと見て、大山は五分以上の立ち会いをしている。
取りあえずは大丈夫だろう。
応援席を見ると、俺と服部以外の男子は全員下に下りていた。
「俺たちも下りる?」
「……そうだな」
服部は周りを見まわして、答えた。
女子ばかりの応援席も居づらい。
竹刀を持って立ちあがると、辻が気付いた。
「もう下りるの?
 まだ時間あるし、いいんじゃない?」
「一応な、早めに行っといた方がいいだろ」
辻が答えないうちに、応援席を出た。
服部は先に通路に出ている。
俺を見てなぜか少し笑った。

個人戦が始まった頃に、まこっちゃんたちは帰ってきた。
声高に話し合っている。
「あ、紺ちゃんありがと。
 それじゃ、下行こうか」
興奮した様子で、まこっちゃんは言った。
プリントだけ持って着いて行くことにした。
通路を歩いている時も、階段を下りる時も皆は喋りっぱなしだった。
特にまこっちゃんは何か自慢げに話している。
体育館も、人が多くて結構うるさい。
時々入る放送も、館内に響く。
着く頃には第二試合が始まっていた。
「どこ行くの?」
「Dコート。今、原田くんがやってるでしょ。
 ちょっとプリント見せて」
まこっちゃんは私の手からプリントをひったくった。
「あったあった! Cコートで第三試合だって」

「ねえ、何の話?」
「ああ、紺ちゃんは足立くん知らないのか」
まこっちゃんの手元をのぞきこむと、確かにCコートの第三試合に足立と書いてある。
「去年ベスト4に入った人」
「中2で?」
「そう。それで、マジかっこいい」
ずっと騒いでいる理由がやっと分かった。
さっき話しかけてたのはまこっちゃんで、話しかけられたのはその足立さんなんだろう。
Dコートに着いても、原田くんそっちのけで喋りつづけていた。
石川さんの言う通り、試合は見ていてもよく分からない。
素人目には、全部一本入っているように見える。
よく分からないうちに原田くんは勝っていた。
「次、あっちで足立くんだって」
まこっちゃんたちはぞろぞろとCコートに移った。
結局何も応援してないけど、いいんだろうか。

「あー、人いっぱいだ」
Cコートの周りは人だらけになっていた。
女子だけじゃなくて、男子も大勢いる。
それだけ足立さんの試合が注目されているということだった。
コートの中ではまだ前の試合をやっていて、白の方で待っている人の垂れには「足立」とはっきり書いてある。
相変わらず、試合は何をやっているのか分からない。
ただ竹刀の音がかなり大きくて、防具をつけていても痛々しく見える。
コートの向かい側に目を逸らした。
向かいにもやっぱり人が多くて、洋服の人と胴着の人が入り混じっている。
その中に、見覚えのある文字が見えた。
面をつけて太った人と話しているのは、間違いなく「S中 樋口」だった。
太った人の垂れにも「S中 大山」と書いてあるから、同じ学校の人に違いない。
なぜか緊張してきた。
樋口さんは大山さんと話しこんでいて、私に気付いてる様子じゃない。
安心すると同時に、少しがっかりした。
その時、試合が終わった合図に笛が鳴った。
さっきまで試合をしていた人たちは後ろに下がって、代わりに足立さんが前に出てくる。
足立さんがコートの中央に来たとき、樋口さんがこっちをちらりと見た。

下に降りると、大山が面をつけたまま地べたに座りこんでいた。
「勝ったのか」
「まあな。お前、そろそろ面つけろよ」
見ると、服部はいつの間にか面タオルを巻き始めている。
大山は面紐に手をかけた。
「外すのか?」
「次、俺13試合目だからな。
 先にCコート行ってるぞ」
すぐに面を外した大山は、Cコートへ歩いて行った。
Cコートといえば確かに5試合目は俺だが、3試合目は足立だ。
俺の試合を見物しがてら、足立も見ていくんだろう。
面紐をしっかり結んで、両手で面を叩いた。
ずれないかどうか確認するためだ。
顎のずれないのを確かめて、竹刀を持って立ちあがった。

Cコートの周りには人だかりができていた。
全員が足立の見物客ならば、やはり相当の期待があるに違いない。
都心部の道場で大学生に混じって練習しているという話を聞いたことがあるが、あながち嘘とも言えない。
私学大会は公立の学校が含まれないから数が少ない代わりに、粒揃いだ。
その中で中2でベスト4に入賞というのはそう簡単にはできない。
大山は巨体で場所を取って、腕組みしながら見物していた。
「足立は?」
「まだ。次の試合」
大山は口数少なくそう言った。
視線が足立に突き刺さっている。
男子では珍しい白い胴着の足立は、軽くジャンプをしていた。
かたや相手の方は、気の毒なほど縮こまっている。
足立のネームバリューにびびりまくっているんだろう。
「今はどことどこがやってるんだ?」
大山は知らない学校の名前を挙げた。
垂れに書いてある学校名を見ても、やっぱり分からない。
諦めて試合に専念することにした途端に、赤が面を決めた。
延長だったのか、戦っていた二人は元の位置で竹刀を収めた。
前の選手が引くと同時に、足立が一歩踏み出した。

見物客がざわめく。
足立はプレッシャーを感じている様子もなく、軽やかに歩を進めた。
可哀想なのは相手で、こっちの方がよほどプレッシャーにやられている。
「ガチガチだな」
当然相手のことを、大山はつぶやいた。
中央まで3歩歩いた足立は、流れるような動きで蹲踞をした。
蹲踞とはかかとを上げて和式便所に座るようなもので、上半身は竹刀を構えたままの姿勢だ。
一際うるさかった女子の一団が声をひそめた。
何かあったかと思って見ると、食い入るように足立を見ている。
思い入れでもあるのか、5、6人が揃って固唾を呑んでいる。
そのすぐ横に、ぽつんと立っている女子の姿があった。
一団の一人らしいが、真剣に試合を見るわけではなく、ぼんやりと立っている。
見覚えのある紺のブレザーだった。
眠たそうな目で試合を眺めているのは、間違いなくすれ違った子だった。
向こうもこっちを見ている。
試合を見ているというより、こっちを見ている。
すれ違った時に何かしただろうか。
さっきまでぼんやりしているようにしか見えなかった眼差しが、俺を睨みつけているように見えてきた。
観客の湧いた声で我に帰った時は、足立が早々に一本を取っていた。

樋口さんも私に気付いたのか、こっちを見ている。
面をしているから顔はよく分からない。
試合が始まっても、樋口さんはこっちを見ていた。
今更こっちから目を逸らすのもなんだか気恥ずかしくて、樋口さんに視線を向けるほか無かった。
しばらくして、樋口さんが怪訝そうに見ているのが分かった。
すれ違った時に何かしただろうか。
「あ、やった!」
まこっちゃんが横で大声を出したので、驚いて振り向くと満面の笑顔だった。
足立さんが一本取ったようだ。
始まって間も無いのに、もう取ってしまったのか。
思わず視線が樋口さんから外れて、試合に向いた。
立ち会っている。
しばらくして、足立さんは軽やかに地面を蹴った。
素人目にも軽やかと分かる動きだ。
そこから小手を狙って阻まれても、すぐさま面に移った。
小気味良い音がして、一斉に旗が上がる。
足立さんは一分も経たないうちに勝ってしまった。

次の試合が始まっても、見物客はなかなかその場を離れようとしない。
足立さんが離れるとどこかにいなくなる人もいたけど、大半の観客は残っている。
樋口さんはさっきの大山さんに背中にたすきを付けてもらっていた。
見ていると、胴の紐は背中で交わるように結ぶみたいで、その交わったところに鉢巻みたいなたすきを結んでいる。
樋口さんは赤で、コートの外でじっと4試合目を見ていた。
その向かいで試合を待っている白の人は、原田くんのような体型だった。
肩が広くて、背が高くて胴回りもいかつい。
そう思っていると、すぐ後ろに原田くんがいた。
さっきの試合からいたんだろうけど、私が気付かなかっただけだろう。
原田くんは腕組みしながら試合を見ている。
剣道を見物する男の人は皆腕組みをするみたいで、皆申し合わせたように腕組みしている。
「紺ちゃん、Aコートでうちらの試合あるんだって。行こう」
まこっちゃんは、やっと落ちついた様子で私に近付いてきた。
他の子もAコートに移っている。
「原田くんは?」
「さあ? 次の試合見たいんだって」
腕組みで仁王立ちしている原田くんを置いて、私はまこっちゃんについて行った。
樋口さんの試合には興味があったけど、一人だけ残ることはできなかった。

Aコートには、確かにうちの学校の人がいた。
白で待っている人の垂れにはうちの学校の名前が書いてあったけど、知らない人だった。
赤の方では、中肉中背の人が手持ちぶさたに試合を待っている。
垂れには「S中 服部」と書いてある。
樋口さんと同じ学校の人だ。
私たちが着くと同時に前の試合が終わったみたいで、前の人と入れ替わりに二人は中央に出た。
審判の掛け声がかかると、二人とも裏声を出しながら踏みこんだ。
服部さんが先手を取ったようだった。
「負けるなあ、これじゃ……」
まこっちゃんのつぶやきは当たった。
服部さんにあっさりと小手を2本取られて、早々に引き下がったのだ。
Cコートの方を見ると、まだ試合をやっているみたいだった。
――行きたいなあ
そう思っても、一人だけここを抜け出す気にはなれなかった。
服部さんをちらりと見ると、別に応援していた人もいないらしく、さっさとどこかに行ってしまった。
まこっちゃんたちはさっき負けた、こっちの学校の人を取り囲んでいた。
「いやー、残念だったけど相手が相手だから、まあ気にしない方がいいって」
まこっちゃんは笑顔で話した。
「S中って強いの?」
「ん? ああ、紺ちゃんは知らないのか。
 S中って毎年一人はベスト4入るんだよ。
 さっきの相手がS中の大将だったんだって」

可哀想な相手は、一分もしないうちに足立に負けた。
こうなることは分かっていたが、それでも足立の圧倒的な強さを感じる。
終わると同時に4試合目が始まった。
次は俺だから、コートのすぐ側まで歩いて試合を見ていることにする。
そう言えば、さっきの紺のブレザーはどうしたんだ。
居並ぶ観客を見まわしてみた。
さっきまでいたはずの所に、ブレザーの姿はない。
代わりにごつい男が腕組みをして立っている。
男は試合に視線を向けながら、俺の方をちらちらと見ている。
垂れには「Y中 原田」と書いてある。
原田が俺を睨みつける視線は、鬼気迫っていた。
名前に覚えは無い。
そもそもY中の名前に覚えが無い。
あまり強いところじゃないみたいだ。
原田の視線を気にしているうちに、第4試合が終わった。
原田はいよいよ俺を睨みつけている。
引き下がった選手に代わって、コートのライン近くに立った。
「お願いします」
一礼して3歩踏み出した。
やはり紺のブレザーはいない。

1分ほど経ったところで、面を取った。
その一本を守りきって、どうにか勝った。
紺のブレザーの姿は無い。
竹刀を収めて引き下がると、横から大山が近寄ってきた。
「まあまあだったな」
「まあまあよりは良かったんじゃないか?」
「相手が弱かっただけだって」
「それよりさあ、Y中の原田って知ってるか?」
「Y中?」
大山は怪訝な顔をした。
「またマイナーだな……」
「知ってるのか?」
「まあな。
 で、原田って誰だよ」
「あれだよ」
原田はまだCコートにいて、やはり試合を見ながら俺の方を見ている。
「あのでかい奴か?」
「俺の方ばっかし見てくんだよ」
大山は首を捻った。
「聞いたこと無いな……お前も知らないんだろ?」
「知ってたら訊かねえよ」

歩いていると、大山が原田を振り返りながら言った。
「気になるんだったら訊いてこいよ」
原田はまだCコートにいる。
「そうだな」
「それにしても、Y中に知り合いでもいるのか?」
「別に……Y中って初めて聞いたし」
「剣道弱いからな」
話しながら歩いていると、面を外している服部の横に女子がいるのが見える。
俺より先に試合が終わったのだろう。
「お前ら見に来たの?」
大山が声をかけると、女子たちは振り向いた。
「別に。
 足立くんの試合見に来たんだけど、人多かったからやめた」
ぞんざいな口調で答えた。
横に座って服部に訊く。
「勝ったか、服部」
「一応勝ったけどな」
面を外した服部は、苦々しい顔をしていた。
「かかと打った」
足を崩した服部は、両手で足の裏をもんでいる。

座りこんで面紐に手をかけると、後ろに立っていた辻が話しかけた。
「試合勝ったの?」
「勝った」
「途中まで上で見てたけど、相手結構強くなかった?」
「結構強かった。
 でも、この調子だったら足立と当たるかもな」
並べた小手の上に面を置いて、面タオルを取った。
横を見ると、大山が女子たちと何か立ち話をしている。
女子はしきりにうなずきながら聞いている。
にやにやと話す大山は、どこか怪しい。
「お前、何話してんだ?」
「ん? 別に。
 トーナメントの話」
大山の笑みには嘘の色が濃く出ていた。

それから何回か試合があって、うちの部員はことごとく負けていった。
2回戦が終わっても残っていたのは、原田くんともう一人だけだった。
上に上がってからは樋口くんを見物しようと思ったけど結局見失ってしまった。
「なんか悲しいな」
まこっちゃんは溜息をつくように言った。
「こんなに負けると思わなかった」
「この次、女子だよね?」
「そうだよ」
「女子は強いの?」
「まあ男子よりは強いかな」
男子個人は準決勝が終わった時点で一旦中断する。
その次に女子個人が始まるらしい。
今は男子個人の3回戦で、これに勝てばベスト16だそうだ。
「あとどれぐらいで終わるの?」
「多分、まだ30分はかかると思うよ」
「そうなんだ」
「私、竹刀の点検でもしようっと」
まこっちゃんは竹刀袋を漁って竹刀を取り出した。
私も話し相手がいなくなってしばらく試合を見ていたが、知らない人同士の試合を見てもつまらない。
5分もしないうちに飽きて、席を立つことにした

行く当てもなく、応援席を出る。
女子剣道部にはまこっちゃん以外に友達がいないから、誰かを誘うこともできない。
一人で一階に下りることにした。
試合をやっているところに出れば、もしかしたら樋口くんが見つかるかもしれないと思ったからだった。
一人で階段を下りる。
途中、何度か剣道着を着た人とすれ違った。
制服姿なのは私ぐらいで、ちょっと浮いているのが自分でも分かる。
試合場のドアを開けると、歓声や掛け声が入り混じった音が、上で聞くより一層大きかった。
試合場に来るのは今日で2度目のはずなのに、このやかましさにはなかなか慣れない。
一部の学校では応援団らしき集団が応援席でうごめいていた。
ちょっと勝ったり負けたりしただけで歓声や怒号を上げたりする。
よっぽど剣道にいれこんでいる学校なのだろう。
一通り辺りを見まわすが、樋口くんの姿はない。
取りあえずは見つからなかったが、樋口くんを見つけるのはそんなに難しいことじゃないように思えた。
だって、コートは四つしかないのだ。
コートのどれかで試合を見物してるかもしれないし、体育館の中をざっと探せばT中の名前は見つかるはずなのだから。
そういう気楽な気分で館内をうろつくことにした。

案の定、T中の一団はすぐに見つかった。
たまたま通りかかった人の垂れにT中の名前があったのだ。
中学の名前の下には『服部』という刺繍もある。
その服部さんは背がそこそこ高く、すらっとした男の人だった。
原田くんほど男臭くはないが、精悍な顔つきをしている。
その人についていけば、きっと樋口さんにも会えるはずだ。
同じ学校なんだからいつかは見つかるに違いない。
そう思って足を踏み出してから、ふと気付いた。
なんでこんなに熱心に樋口くんを探してるんだろう。
別に知り合いでもなければ、前から話を聞いていたわけでもない。
ここに来るまでは興味を持つどころか存在さえ知らなかったのに、今では樋口くんに会うために同じ学校の人をつけている。
そう思うと無理にでも樋口くんに会おうとしていた自分が変に思えた。
誰に対して恥ずかしいわけでもないのに、急に背をそむけなければならないような気がした。
ただ廊下ですれ違った人の試合を見ただけじゃない。
別に好きになったわけでもないのに、追いかけるなんて恥ずかしい。
わざわざ自分を説得して、服部さんの背中を見送った。

気にしていたことが実現してしまった。
やはりと言うか、2回戦も勝ってしまったのだ。
足立が勝っていれば、次の試合は足立とである。
当然、足立が負けているはずもなかった。
「おい、大丈夫か。
 緊張するなよ」
面をつけてから、大山が無茶なことを言う。
「分かってるって」
自分だって緊張しないように意識しているのだ。
何しろ、去年負けたということもある。
足立の実力と比べると、自分の力が及ばないのは目に見えている。
それでも一矢報いたいとは誰もが思うだろう。
「それじゃ、俺ももう行くか」
大山も試合が近いため面の下の顔が強張っている。
竹刀を持って立ちあがると、他のコートへと歩いて行った。
試合に勝つにつれて強い選手との試合になるのだから、徐々に緊張するのは当たり前なのだ。
そろそろ俺の試合も迫ってきた。
大きく息を吐いて、立てかけてあった竹刀を手に取る。
はずみで竹刀の先が視界に入った。
「あ……」
そこで思わず声が出た。
「ささくれてる……」

いつのまにか竹刀の物打ちの部分がささくれていた。
ささくれた竹刀の使用は、危険なため厳重に禁止されている。
ささくれが相手の目に入ったりして怪我があってはならないからだ。
もう一本の竹刀は練習の時にすでにささくれていた。
部室にあった適当なのを持ってきたのがいけなかったのだ。
周りを見まわすが、俺以外は誰も同じ学校の生徒がいない。
もし無断で竹刀を借りれば、借りたやつに何か起こった時に替えの竹刀が無い。
こうなれば、何とか同じ学校の生徒を探して借りるしかない。
その時、見覚えのある顔が目に止まった。
垂れには『原田』と書いてある。
一回戦で俺の試合をじっと見ていた男だ。
見ず知らずの相手だが、とにかく今は竹刀を手に入れなければならない。
満を持して声をかけてみた。
「あの、すいません」

樋口くんを探すのをやめた私は、試合場に居てもつまらなくなってきた。
かと言って2階に上がっても仕方ない。
樋口くんだけじゃなく、原田くんも見つからなかった。
試合に出ているのかも知れないが、そうだとしてもおかしいぐらいにどこにもいない。
丁度その時、足立くんのことを思い出した。
一回戦であれだけキャーキャー言われていたのだから、きっと次の試合でも騒がれるのだろうな、と思う。
順番から行くと、そろそろ足立くんの試合かもしれない。
もしかしたらまたあのあっという間の試合展開が見られるかもしれない。
どうせ何も見るものが無いんだから、どうせなら少しでも面白そうなものを見たい。
よし、足立くんの試合を探そう。
そう思った時、もしかしたら私は結構ミーハーなのかもしれないと思った。

足立くんの試合はすぐに分かった。
他のコートより一層人が多いんだから、分かりやすい。
人込みを掻き分けて何とかコートの様子を垣間見た。
相手はまだ来ていない。
足立くんは手持ちぶさたに手足をぶらぶらさせていた。
もう前の試合も終わりかけている。
相手が来なければ不戦勝になるのだろうか。
放送で呼び出すくらいはするのかな。
そんなことを考えていると、当の相手が人込みの中からやってきた。
「すいません、次の試合に出るんです」
何度もそう口走りながら人の波をかいくぐる。
どうにか間に合ったようだったが、そんな調子で勝てるのだろうか。
素人の私でも大丈夫かと不安になる。
まこっちゃんにでも話そうかと思って、垂れの名前を見た。
『樋口』
いきなり、頭に固い物でもぶつけられたような気がした。
それと同時に、樋口くんってこんなだったかな、という気もした。