187
IEEE1395 投稿日:2002/08/09(金) 01:51
「応援」
「ねぇ、ヒロト。ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど」
圭が神妙な面持ちで俺にそう聞いてきたのは、久しぶりの
二人での夕食を終えて少しした頃だった。
その時の俺はそんなに深く考えずに、言いたいことあったら言え、
なんて答えたのだが、その後の彼女の言葉に思わず口にした
お茶を噴出してしまった。「あのさ、私、『娘。』やめようかと思うんだけど……」
あまりの突然のことに初めは冗談かと思ったが、こいつの目を見て
冗談ではないことを確信した。
同時に、それは俺にその是非を問うているのではなく、
自分で決めたことの宣言であることも。
もう一緒になって2年以上経つ。
それぐらいのことは特に問いただす必要もなく分かっている。「そうか」
俺はただそう答えた。
特に意味もない。
とりあえずお前の言うことは理解した、ただそれだけの意味。「……何も、聞かないの?」
突然の雨に打たれて震える子犬のような上目づかい。
圭の、俺の行動に不満がある時の態度。「何を聞く必要があるのさ」
別に冷たい口調で問い詰めたというわけでもない。
ただ純粋に、『何を聞いて欲しいんだ?』……その時の俺は思っていた。「お前はもう決めたんだろ。だったら俺が口を挟む必要はない。
第一、俺が何を言おうと変えられないんだろ?」俺の言葉に納得したのか、圭は小さくうなずいた。
「来週、発表することになったんだ。
事務所の人がそういう手筈を整えてくれてる。
きっとものすごいことになるわよ」そう言って圭は口の端を曲げる。
悪戯がばれるのが楽しみで仕方がない子供のような目で。「そうだな、そうなるといいな」
正直に言って、俺には圭が人気がないのが分かってる。
他のメンバーやアイドル達のようにちやほやされているわけでもないし、
テレビに映る回数も少ない。
中には非常によく取り上げてくれる番組もあるようだが、
それも人気があるからではなくむしろ無いことを面白がっているような、
そんな取り上げ方だ。
最も、圭はそんな番組でも『取り上げてもらえるのが嬉しい』
と言って健気に頑張っている。そんなだから、俺にはその発表というのがそれほどのインパクトを
与えるものでもないだろうと思っていたが、圭には流石に言えなかった。「なるといいな、じゃないわよ。絶対そうなるの」
圭は自信満々にそう答える。
そして俺が口を開くより早く、さらりと言ってのけた。「だって、現役アイドルが結婚して辞めるんだから!」
「マジで?!」
「嘘」
そう言って圭は大笑いした。
憮然としている俺に向かって、目に涙をためながら言う。「あはは、ごめんごめん。
でも、今の顔、ちょっと嬉しかったよ」圭の笑いが止まらないので、仕方なく俺も笑う。
はにかんだような、ぎこちない笑い方。
きっと、さっきの俺はよっぽどだらしない顔でもしてたんだろう。「今は、まだ無理かな」
しばらくして、ポツリと答えた。
俺が黙って見ていると、圭はまた口を開いた。「今はね、仕事に打ち込んでいたい。
今結婚したら、もう二度と仕事できなくなるから。
しばらく仕事して、アイドルから抜け出せたら……しようよ。
そしたら、ずっと仕事していけると思うから」そう言って見つめる圭に、俺はゆっくりと頷いた。
「そうだな、そうしよう。
じゃあその時は、お前に食わせてもらうか」「うん、いいよ。
おもいっきり、豪華な生活させてあげる」「冗談だよ。別に食わせてくれなくたっていいさ」
俺が軽く言ったのを聞き咎め、圭は少し口をとがらす。
「何よ〜。私と結婚したくない、って言うの〜」
「そんなわけないさ。ただ、俺はお前と一緒にいられればいいってだけさ。
金なんて、幾らでも俺が稼いでやるよ」「ヒロト……」
圭と目があうと、頬がみるみる上気していく。
だが俺は、それ以上に自分の顔が熱くなっていくのが分かった。「よし。じゃあ決めた」
急に圭が叫ぶ。
俺は頬がさめきらないまま、圭に聞いた。「何を」
「仕事やめる」
「おいちょっと待て。そりゃ困る」
「何よ、食わしてくれるんじゃなかったの?」
圭はそう言ってニヤニヤしている。
俺はなんとなく悔しかったので、必死で言葉を探す。「そうじゃないって、いや、その。なんだ……そ、そう!
いきなりやめたりしたら、アブねえヲタとかが暴れるだろ!」自分でも何を言っているのか分からなかったが、圭は平然と答えた。
「大丈夫よ。一番危ないヲタはここにいるから」
「馬鹿……」
俺は小さく呻くと、圭を後ろに押し倒した。
そして瞳が閉ざされるのを確認するまもなく、唇を重ねる。
唇を離すと、今度は圭が目を開くのをゆっくりと確認して言った。「一番危ないヲタだから、最後まで一番応援してやるよ」
圭は、俺だけに見せる一番綺麗な顔で笑ってくれた。
〜Fin〜