244
自称K 投稿日:2003/05/09(金) 01:17
浮遊。
手。
虹色。
蠢き。
流れ。
――――夢?
まどろみ。
そして…… 光。
――― Rent ―――
彼は初め、夢を見ているのだと思った。だがしかし、頬から伝わる熱と痛みはそう思う事を許さなかった。
目の前で自分を思いっきり引っ叩いている少女を見ても怒りなどは湧いてこなかった。
――――否、湧いてこようはずが無かった。
目の前にいるのは彼が大好きで、友人達との話のネタにし、部屋にはポスターを貼り、コンサートにも
行った事のある、モーニング娘。の後藤真希、その人がいた。「ようやく、目が覚めたみたいね」
そう言うと少女は立ち上がり、彼を見下ろす。
少女の、彼を見る視線は冷たい。氷点下の視線とでもいうべきだろうか。
その視線のあまりの冷たさに彼はたじろいだ。
が、少女の声もやはり彼女が後藤真希である事を強く認識させた。「で、あんた誰? ここはやぐっつぁんが『隔離』してるはずだから誰も入って来れないはずなんだけど」
そういえば、と少女は思った。(正確には誰も、じゃないんだっけ)
だが今はそんな事は問題ではない。この少年はどう見ても学生だった。
ガクランは着てるし、いかにも「学生」といった鞄ももっている。
この見るからに隙だらけの少年がそんな稀有な力を持っているようには見えなかった。「も、元モーニング娘。の後藤真希さんですよね? 俺、ファンなんです。サインしてください!」
「………はぁ?」
今まで、地面に寝転がったままぼーっとしていた少年が、
唐突に立ち上がり――少女はそれだけで少し驚いた――開口一番に吐いた台詞は
少女に素っ頓狂な声を上げさせるには十分な内容だった。(サインを求められることが無いわけじゃないけど……)
「何? そのモーニング娘。ってのは。お笑いかなんか?
確かに私は後藤真希だけど、その、モーニング娘。とか言うのは知らないよ」そんな馬鹿な、と彼――西岡利明――は思う。
(この容姿で、後藤真希っつったらモー娘。の後藤しかいねぇだろう?)
だが少女は嘘をついてるようには見えない。
もっとも、彼女は嘘をついても顔に出るようなタイプには見えなかったが。
だが、念のためもう一度利明は先程の問いを彼女に投げ掛けた。「本当に……モーニング娘。の後藤真希さんじゃないんですか?」
「だから違うって言ってるじゃん。大体その、モーニング娘。ってなんなのさ」
素人目にはどう見ても本気で聞いてるらしい少女の言葉に利明は戸惑った。
また、先程までの興奮から少し落ち着いてきたのか、ようやくあの後藤と話してるのだという実感を
持った彼は恥ずかしさから心臓が暴れるのを押さえ、顔に血が上らないように努めなければならなかった。
それでも何とか後藤に対する返事をする。「――――本当に、全く知らないんですか?」
「あんたもしつこいね。知らないって言ってるでしょ」
少し時も含まれてきた少女の口調に気圧されるように利明は説明を始める。
「……じゃあ、簡単に説明しますけど、モーニング娘。ってのは後藤さんも所属していた
アイドルグループで、とても人気があるんですよ。確か今は15人のはずです」利明は我ながら適当すぎたと思ったが、それでも少女はなんとも微妙な顔でこう言った。
「なんか、突っ込みどころがありすぎて困るんだけど…… なに? あたしもそのモーニング娘。なわけ?」
「いえ、後藤さんはもう辞めてますけど……」
「大体、15人で一グループってどう考えても多すぎでしょ。アイドルでモーニング娘。ってのもね……
それに、今時女性のアイドルグループなんてあるわけないじゃん。」少女の言ってることは確かに誰でも一度は考えた事のあることなのだが、今更そんなことを言う人はいない。
それよりも利明は少女の最後の台詞で思わず、はい? と声を出しそうになった。「結構昔ならともかくさぁ。今アイドルって言ったら男しかいないよ?
なんかあんたの言ってる事冗談にしても面白くないし、本気で言ってるなら頭おかしいね。ゼッタイ」「そ、そんなはず無いですって。モーニング娘。は本当に人気なんですよ。
俺は後藤さん以外では石川さんや矢口さんが――――」言いかけた利明の言葉は少女によって遮られた。
「お前、その名前をどこで知った?」
少女は自分の友人――石川や矢口――の名前が少年の口から出てきたとき、迂闊にも目を瞠った。
が、すぐにいつもの無表情を創り上げ、なるべく冷たい声で問いかける。
そしてその声は少女自らが驚くほどに凍てついていた。―――――――――――――――――
「――――えっと、本名 西岡利明、すぐそこの有名私立高校に通う高校2年生。
で、住所は君の言う通りならココ。父親は銀行勤め、母親は郵便局でパート。
んでもって、能力なんてモノは知らない。と。これで間違いない?」「え、えぇ……」
利明はモーニング娘。のメンバーが4人――自分の好きな娘ばかり――いるこの状況で
どこか上の空だったが、なんとか金髪の小柄な少女の問いかけに答える。
そして、どうしてこんなことになったんだろう、と自問した。自分は今日確かに学校に行った。それは覚えている。
そして、午前の授業を何とか乗り越え昼食を取りながら、
友人達とモー娘。やドラマの話をした。これも覚えている。
そして、昼食後の数学の授業。これがあまりに退屈で眠たかった。ここも覚えている。
そして自分は、その授業で眠ってしまったんだろうとも思った。
だが、その後の事はさっぱりわからない。まず、気が付くとそこには彼の良く知る人物――後藤真希がいた。
そしてその後藤は、自分はモーニング娘。なんか知らない。と言う。
それだけでも訳がわからなくなってきていたのに、自分が石川や矢口の名前を出すと、
驚くほど冷酷に『死にたくなければあんたの目的を言え』だのなんだの言ってきた。
彼自身、状況がさっぱり分からなかったので、とりあえず今日の行いを説明し、
気付いたら目の前に後藤がいた事を何度も強調した。
それでとりあえずその事を棚上げにする事にしたらしい後藤だったが、すぐに次の質問をしてきた。曰く、この世界のものなら誰でも能力を持っているはずで利明の能力はなんなのか、といったことだった。
だが、利明は顔に疑問符を浮かべるばかり。
埒があかないと思った後藤が、「今からあんたの事を調べさせてもらう」と言って
利明に目隠しをして強制的にここに連れてきた。それが1時間ほど前。目隠しをされてすぐに聞いた爆発音がなんなのか利明は知らない。
そして目隠ししたまま、後藤に引き摺られるように歩く事30分、ここに通された。
椅子に座らされて手を縛られた後、ようやく目隠しが取られた。
それはぱっと見どこにでもある事務所のようだった。
20畳ほどの部屋に業務用の机が5つほど置いてあった。
そのうち1つはどうやら使われていないようだった。パソコンが載ってる机が2つほどあり、
残りの2つは仕事ができる状態には見えない。そこでふと視線をずらした利明は座っている自分と、ほぼ同じ高さにある激しく脱色された髪を見つけた。
自分が引き摺られているとき後藤以外に足跡がしている気がしたのは気のせいではなかったようだ。
そして気付いた。この背の高さ、脱色された髪、後藤………
「――――や、矢口……さん」思わず声を上げてしまった後、利明はしまった、と思った。
こちらに振り返った矢口は予想通り怪訝そうに眉をしかめていた。「なんで君がおいらの名前を知ってるの?」
あまりに予想通りの台詞に利明は思わず笑みを溢しそうだったが、それはなんとか押し留めた。
矢口への返答に、えっと…… その…… などと間誤付いていると、後藤が矢口を奥に連れて行った。
後藤がごにょごにょと内緒話をするように耳の近くで囁いてる間の矢口は眉を動かしたり、
目を丸くしたりして見ていて飽きる事は無かったが、その目からだんだんと
利明に対する疑いの色が強くなるに比例して、利明の不安も大きくなっていった。後藤の話を聞いて矢口が近寄ってくる。利明はまた後藤のときのように脅されるのだろうと考える。
しかし、予想に反して矢口の口から出てくるのは、簡単な質問ばかり。
矢口を目の前にして何を言ったか全く分からなかったが、なんとか答えられたような気がする。
ただ、能力は何か。と問われたときに、分かりません。利明が答えると少し表情が動いた気がした。
その間、後藤は誰かを呼び出してるようだった。そして、とりあえず矢口に『あなた達は何者なんですか?』というありふれた質問を
しようとした、その時、「たっだいまぁ〜!」「こ、こんにちは…」
勢い良く蹴り開けられたドアが、バァンと大きな音を立て、
凄い声量のもとに発せられた声が、あまり広いとは言えない部屋に響き渡る。
大きい声に隠れてもう一人の少女の声はほとんど聞こえない。「そこで梨華ちゃんに会ったんだけど、どうしたの?
いつもはあんまりここに入れたがらないのに……」そこまで言ってその少女は、ようやく利明の存在に気付いたようで、
あんた誰? と声をかけてきた。
利明としてはまた初めから説明するのは面倒なわけで、後藤のほうに視線を向けた。
それにしても、いい加減に首しか動かせない状態も辛い。
先程から何度も頼んでみてはいるが、まだ駄目だ。の一点張りで、
今更言ってもしょうがないことは分かっていた。時期が来れば向こうからはずしてくれるだろう。視線を受けた後藤は何の事か察したのか、今入ってきた少女二人を奥に連れて行き、
事情を話しているようだった。ただ、矢口は近くにいるまま動かない。――――そして今に到るというわけだ。
「それにしても能力知らないなんて、あんたホントにこの世界の人間なのぉ?
それとも頭おかしくなっちゃったとか…… そっちのほうが可能性高いかな」よくわからないテンションで話しかける、そのショートヘアの少女は言うまでもなく吉澤だ。
「そんなことは無いと思うんですけど…… 俺からすりゃあんたらのほうがよっぽどおかしいよ」
後の台詞は聞こえないように言ったつもりだったが吉澤の耳にはしっかり届いたようで。
「いや、誰がどう考えてもあんたの方がおかしいよ」
聞こえたら怒られると思っていたので小声だったのだが、予想に反しそんな事は微塵も思ってないようだ。
そして、吉澤と一緒に入ってきたセミロングの良く整えられた髪をもつ少女、
石川独特の声――いわゆるアニメ声――で、じゃあ始めるね。という声が聞こえた。
見ると、石川が後藤との話を終えたようでこちらに向かって歩いてくる。
そして、手を触れた。彼の腕に。「な、何を……」
と利明が声を上げかけた時、後藤の声がした。
利明はこの、さっぱり訳の分からない状況の中、久し振りに後藤の声を聞いた気がする。「あ〜、あんたは別に何もしなくていいから。ただ、梨華ちゃんが触ってるのもほっといて。
それと、梨華ちゃんに話し掛けても無駄だから。それやってる時はなぁんも聞こえないみたいだし」それから5分ほどの静寂。後藤と矢口は息を呑んで石川を見守り、利明はただその雰囲気に圧倒される。
生理的に静寂を好まないと思われる吉澤も、この時ばかりは好奇心に目を輝かせ黙っていた。「――――ふぅ……」
溜め息と共に顔を上げた石川に皆の視線が集中する。石川の頬が少し赤くなる。
「で、どうだったの?」
いかにも、興味津々といった感じで尋ねる吉澤。
それに対する返事は鈍い。「うーん…… 良くわかんないね、まだ。」
そう、と言う吉澤の表情は少し暗くなったが、すぐに表情は復活し、大声を上げる。
「ちょっとあんた! 今から少しの間息しないでよ! あと、身体もなるべく……
いや、絶対動かさないで。わかった?」そんな無茶な。そう思う利明だったが、今の状態の吉澤を前に口にするのは躊躇われた。
口に出せばたぶん殴られる。いや、確実に。そんな迫力が目の前の吉澤にはあった。
仕方なく、利明は努力はする事にした。1分ほどして、後藤が、どう? と石川に尋ねるのを見た利明は、息を吸う事を再び開始した。
「………何も感じるものはないよ。それに何にも影響を与えてないと思う……」
後藤はどこか残念そうに、そう…… とだけ呟いた。
「おいらもなるべく注意して見てたつもりだけど、それらしい動きはどこにもなかったと思う。
よっすぃーも何も起こってないように見えたでしょ?」「うーん…… まぁ、そうかな」
「あ、でも能力が無いって決まったわけじゃないよ。
私たちの想像できない事がどこかで起きてるのかもしれないし」「ま、直接攻撃でも例のあの能力でもないんなら、そんなに危険人物でもないのかな」
「あのぉ、ずっと聞きたかったんですけど能力ってなんなんですか?」
利明としては普通に分からず、ずっと気になっている事を再び口にしただけだ。
だが、皆の目は本当にそんな事も知らないの? と雄弁に語る。
その目からはつい先程までの警戒の色は薄れているので利明はひとまず安心できた。「――――はぁ…… まぁいいや。一応説明してあげる。
この世界では通常みんな他の人とは違った力を持って生まれてくる。
つまり、それが『能力』ってわけ。納得した?」「いえ、ぜんぜん」
利明は一瞬の間もなく返答する。いや、少し声が重なってしまったかもしれない
納得という言葉が聞こえた時点ですでに口は開かれつつあった。「ちょっとごっつぁんの説明が適当すぎるんじゃない?
本当に何も知らないんだったらそれじゃ分かんないよ。」「じゃ、おいらがもうちょっと詳しく説明するから。
えっと…… まず、ごっつぁんも言ってたけどこの世界には『能力』って呼ばれる力がある。
それは普通はみんな生まれつきもってるもので…… あ、この場合の普通ってのは99.9パーセントくらいね。
んで、その能力は一人一人違う。同じような能力でも力の大きさが違ったりもするし。
例えば、小さなものを動かしたり、微かな風を呼んだりとかね。
もちろん、おいらやごっつぁん、よっすぃーや梨華ちゃんにもあるよ。
おいら、ごっつぁん、よっすぃーなんかはその能力を活かして仕事してるってわけ。
どう? 分かった?」「いや…… 正直あんまり。さっきよりは分からんこともないんですけど」
「そう…… 自分でもごっつぁんの言った事とあんまり変わんないなぁ、って思ったよ。長いだけで。
まぁ、口で説明するより実際見たほうが分かりやすいよね。ちょっとよっすぃー」矢口はそう言うと、そばで石川と笑いながら話している吉澤に声をかける。
「なにー?」
「ちょっとだけ力使ってほしいんだけど、あのボールペンあたりで」
「ん、いいよ、別に」
そう言うと吉澤はおもむろに右手を軽く動かした。そこにあるはずもない物を見つけ利明は驚いた。
先程矢口が指差したボールペンが吉澤の手に握られていた。「どう? これが能力」
分かった? というニュアンスも含んだ物言いだったが今の利明にはそんな事を汲み取る余裕はない。
「……え? こ、これって……瞬間移動!?」
驚きのあまり声が少し裏返ってしまったが、それは仕方のない事だ。
まったくもって的外れな言動にその場にいた4人は内心耳を疑う。もしくは利明の目あるいは頭を。「何言ってんの? 瞬間移動じゃないよ…… もっかいやってもらうからよく見てなって。」
「じゃ、やるよ」
先程と同じ動作が繰り返され、今度は吉澤は手にボールペンと同じ机にあった消しゴムをもっていた。
あれ? と利明は思う。消しゴムが吉澤の手に現れる前に向こう側に見えた気がしたのだ。「も、もう一回やってください」
そう頼んで、今度は吉澤じゃなく、机の方を凝視する。
やっぱり。思った通り今度は物差しが動いてるのを見て取れた。「物を、動かす事ができるんですか……」
「そ、よしこは物体操作の能力を持ってるの。これで能力がどんなものか分かったでしょ?」
「えぇ、まぁ……」
そうは言ったが、利明はこの目の前の現象ににかなり混乱していた。それはそうだ、
自分の常識が全く通用しない事態に人はそうそう適応できるものではない。
まだ、高校2年生という頭の固くなりかけの年代だから良かったものの、
40代とかだとマズイことになってたかもしれない。「で、あんたこれからどうするの?」
気付けば先程まで石川と喋っていたはずの吉澤が、目の前にいた。
「え……? できれば家に帰りたいところですけど……」
混乱した頭で利明はかろうじてそう答える。だが、
「あんたの家って、住所どこ?」
その問いにしばらく不思議そうな顔をして、あっ、と小さな声を上げた。
「あんたの話だと住所はココってことになってるけど、現実にはこの建物があるわけでしょ?
そうなると、どこに住んでたの? まさか、野宿とかしてるわけでもないでしょ。
ちゃんと学校行ってるみたいだし」「俺の言った住所って本当にココなんですか?」
利明は半ば諦めながらも、強く、否定して欲しいと願っていた。
が、その願いはかなえられない。さらっと、極めて簡単に吉澤は言い放つ。「うん、そうだよ」
「やっぱ納得できませんよ! せめて…… せめて、この建物の周りを見せてください!」
ただでさえ、『能力』とかいう訳の分からないものを見せられて混乱しているというのに、
自分の存在さえ否定されたようで利明は思わず語気を荒げた。
連れて来られる時に目隠しをされて見る事のできなかった、この建物の周りを見れば
ここが自分の住んでいる所ではないと確認できると思った。
吉澤は利明の言葉を聞いて後藤や矢口のほうを向き、どうする? と聞いている。「あんま、良くはないと思うんだけど……」
「まぁ、いいんじゃないごっつぁん? どうせ住所ばれちゃってるんだし。
周り見れば彼も納得するんじゃない?」「やぐっつぁんがそう言うんなら別にいいけど……」
後藤は少し矢口の台詞に引っかかるものを感じたが、それは小さなものですぐに消えてしまった。
矢口の意見に素直に従った辺り、この中では矢口が責任を取るべき立場にあるようだった。「じゃあ、あたしが彼連れて出てくるから、やぐっつぁんとよっすぃーは梨華ちゃんとなんかしてて」
そう言うと、後藤は利明の手と足の拘束を解き、すぐそこのドアに進むよう促した。
利明はやっとのことで拘束を解かれた手足を曲げ伸ばししながらも、
これから外で見る事になるであろう光景にわずかながらに不安を胸に抱くのだった。「ほら、着いたよ」
ドアから出るとそこには階段があった。あまり広くなく人二人分ほどのスペースしかなかったが
それを下りると、そこには自動ドアのようなものがあった。「これね、この建物使ってる人にしか開けられないから」
指紋かなんかだろうか、と利明は思った。後藤が着いてきたのは見張り以外にも理由があったのか、とも。
そんな事を考えていたが視界に入ってきたものに見覚えがあることに気付く。
そこにはフェンスの変わりに木を植えて囲っている公園があった。奥に見える遊具にも見覚えがある。
ドアのガラス越しに見えるその公園は、利明が家を出るときに見るそれと同じ物だった。「あ〜、あの公園に見覚えがあんの?」
思考がフリーズしかけていた利明はその言葉で我に返った。どうやら身体の方も固まっていたようだ。
嫌な想像が頭の中を駆け巡る。(たまたま…… そう、たまたまだ。偶然同じような公園があるだけに決まってる……!)
自分が想像してしまった事を振り払うかのように利明は軽く頭を振り、そう自分に言い聞かせた。
そんな利明を見ていた後藤は、ま、出てみれば分かるよ。と、とっとと先にドアから出てしまった。
利明もそれに続く。だが、その足取りはあまりはっきりとはしない。外に出てみると予想外に高い気温とさんさんと降り注ぐ日差しがが利明を襲った。
だが、そんなことに気を取られている余裕はもはや無い。
ドアから出てみれば予想通り。いや、頭の中では考えていたが心は拒んでいた現実がそこにはあった。
周りの景色は全て利明の知っているものだった。
先程の公園も、常日頃利明が利用している青い看板のコンビニも、よく話し掛けられてうざがっていた
子供達の住む家も、学校に遅れそうなときにしか使わない人一人通れるかどうかの狭い小道も、
全て、知っている。頭の中の風景と同じ。――――ただ、そこには利明の家だけが無い。一縷の望みを持って振り返った利明の視界に入ったのは
その現実だけだった。「こ、こんなはずはないっ! 確かにここには俺の家があるはずなんだ!
なぁ、これってテレビかなんかじゃないのか!? ドッキリとかなんだよな?
そうなんだろ? そうだって言ってくれよ!」唯一異なる点が利明の心を打ちのめす。もう、何が何だか分からない。
突然喚き散らす利明を見て後藤は驚いた。後藤としても何なのかさっぱりだ。
どうやって落ち着かせようか思案――殴って黙らせるというのも真剣に考えた――していると、
入り口のドアの開く音がする。そこには、見計らったように矢口が立っていた。「あれ? やぐっつぁん、どうしたの」
タイミングよく現れた矢口に内心安堵しつつ、声をかける。
「いや、こんなことになってるんじゃないかと思ってね。
それで、気になって来てみたんだけど……」やっぱりか。矢口は自分の疑惑が段々と確信に近づいていくのを感じていた。
(もう1度、詳しく話を聞かないとね)
「? どういうこと? なんか心当たりでもあんの、こいつのことで」
「え? うん、まぁね。も1回話聞けばちゃんと分かると思う。
……でも、見た感じあんまり話できそうじゃないね」後藤の質問は当然だ。この西岡利明という人間は、矢口の『隔離』している空間へいきなり現れた。
彼女達からすれば利明の方こそ謎だらけだ。
矢口は、その利明に関して思い当たる事があるという。
そして後藤は、すっかりパニック状態の利明に向かって、またあの部屋へ戻ると言った。
だが利明はもはや聞き取れない言葉を喚くばかりだ。
しょうがない。後藤は埒が明かないと思い、利明の鳩尾に拳をめり込ませた。
ぐったりした利明を引き摺って、後藤はドアの中へ消えていった。
矢口はそんな二人の後を歩いていった。「ねぇ、ちょっと質問に答えられない?」
それは、ここに戻ってきてしばらくの間、何度も投げ掛けられたものだったが、
その都度、利明は沈黙を答えとした。軽く頬を叩いてみても利明が起きる気配は無い。「うーん…… 今日は無理っぽいなぁ。ちょっと強く殴りすぎなんじゃないの?」
時刻はもう7時過ぎ、この場には矢口と後藤の二人しかいない。暗くなるので石川は帰らせた。
吉澤はもちろん石川を送っていった。矢口が石川を送るよう言うと、快諾し、すぐに二人で出て行った。
そのまま直帰するので、吉澤はここには戻ってこない。「いつも通りの力しか入れてないはずなんだけど…… ところでさぁ、こいつっていったい何なの?」
後藤は矢口は全く反応を示さない利明を相手にしている間、ずっとその事を考えていた。
だが、少ない知識を一生懸命掘り返してみてもそれらしい事は思い浮かばなかった。
帰ってすぐに淹れたアイスコーヒーの氷は既に殆ど溶けてしまっている。「まだ、そうだとは言い切れないけど、おいらは違う世界の住人だと思ってる」
「……はぁ?」
矢口の突拍子もない考えに思わず声を上げてしまう。あまり理解できなかったというのもその要因だ。
だが、その発言をした矢口はそんなことは予想済みと言わんばかりにすぐに説明を補足する。「ほら、小説とかでよくあるじゃん? ある地点から分岐して自分達のいる世界とは全く異なる世界が生まれる
とかなんとか…… 俗に言うパラレルワールドってやつ」何だそれは、まるでSFじゃないか。後藤が声を上げようとすると、それを見計らったように矢口。
「これが真実だったら、こっちの世界とその世界を繋ぐ『穴』が必要になると思うの。
それについては、ごっつぁんだって心当たりがあるはずだよ?
おいらの能力も似たようなもんだけど、あいつの能力はもっと……」「あー、まぁね」
遮るように言った後藤の言葉に苛立ちを感じ取ったのは矢口の気のせいではないだろう。
後藤はある特定の人物の名前を出すと途端に不機嫌になる。だから敢えて名前を伏せたのだが、
内容から誰かはすぐに分かる。それでも多少の効果はあるようで、後藤の表情は比較的マシな方だ。
初めに比べるとだいぶ克服したよ。内心矢口はそう思った。そのことは自分にも当てはまるとも気付かずに。
これからの自分の発言が、後藤の表情を更に曇らせる事を考える。
その事は少しばかり矢口の心に圧し掛かった。「でも、この世界にそんな事できる奴いないと思うんだよね。
おいらのじゃ、そんなことできないし。あいつの能力だってそこまで強力なものじゃない。
それでも客観的に見ておいら達の力はトップクラスじゃん? どうなってんのかねぇ」「それに、こいつ能力なんて知らないって言ってたじゃん。もし、やぐっつぁんの言うように
違う世界から来たんなら、こいつの世界には能力なんて無いんじゃないの?」後藤の頭は柔らかい方だ。矢口の言った事をすぐに受け入れる事もできるだろう。
だがそれよりも気になる事があった。後藤の表情にもはや陰りは無い。そのことが矢口には異常に感じられた。
もう、克服したのかな? そう考えるも、先程は顔に表れていた。
だが、今はもういつもの後藤と変わらないように見える。「それなんだけど、おいらはこいつの世界にも能力ってあるんだと思う」
「でも……」
「もちろん、全ての人にあるって言うんじゃないよ。ごく一部の人に、しかもそれはなるべく隠してると思う。
他人と異質な点があるってのは迫害される事に繋がるからね。この世界の能力の無い人達みたいに……
その中にあいつの能力を更に強くしたような奴がいたのかもしれない」なるほど、確かにそれなら説明できない事もない。矢口の『隔離』している空間に現れた事も。
かなり確率は低いが、有り得ないとも言い切れない。聞いてみるとそれ以外には
考えられない事のように感じられて、後藤は自分の単純さに苦笑する。「そうかも…… なんだか、それしかないっ! って感じに思ってきちゃった」
「あはは。まぁでも、まだ仮説の域を出ないし。明日にでもこいつの状態がマシになった時にでも
ちゃんと話聞いてみれば、もっと真実っぽくなると思う」そう言う矢口も自分ではこの仮説で間違いないと思っていた。
そもそも他に考えられる理由など無い。「それはそうと、明日にならなきゃこいつ、どうしようもないって感じじゃん。
それで、今日こいつどこに泊めようか。さすがにここに置いとく訳にはいかないし……
ごっつぁんの家に連れて帰れない?」矢口のこの台詞にはさすがに後藤も驚く。少し、舌が回らなくなってしまった。
「ちょっと、な、何言ってんの! 泊めれるわけ、ないじゃん!」
勢いでそう捲くし立てるも、言ってるうちに頭が冷えて冷静さを取り戻してきた。
落ち着いて考えてみると、自分は一人暮らし。特に問題は無い。「え〜、何でさ。ごっつぁんち、うちより広いしこっからも近いじゃんか。
それに一人暮らしだし……」「そうだけど、いくらあたしの能力が強力で心配いらないって言っても、男と二人っきりで過ごすなんて
嫌に決まってるじゃん」「そーお? 仕方ないなぁ…… うちに泊めるしかないか……」
矢口の判断は賢明だったかも知れない。もし、後藤の家に利明を預けようものなら、翌日見るも無残な
利明の姿を見る事になっただろう。矢口とて少しの間とはいえ、男と二人で過ごす事に抵抗が無い訳ではない。
だが、見たところ利明には能力らしいものは無い。いくら戦闘向きではないとは言え、強力な力を持つ
自分に危険は無いと判断したからこそ利明を泊める事にしたのだ。「じゃあ、そいつ頼んだね」
言うが早いか、後藤は駆け足で部屋から出て行った。
意識の無い利明と共に残された矢口は一人溜め息をついた。―――――――――――――――――
どさっ、という音と共に何者かが起き上がった。
(どこだ、ここ……?)
すぐ傍にあるソファから落ちたときの痛みから、腕をさすりながら利明は思った。
今までのことは夢であったのか、内心そうであって欲しいと願いながら部屋を見回してみる。
そこは、八畳ほどの部屋だった。窓にはオレンジ色のカーテンがかかっている。
ここはリビング兼ゲストルームのようでソファのほかにも四角いテーブルや灰皿、大きなテレビが置いてある。
奥にはキッチンらしきものも見えた。(殺風景な部屋だな……)
利明がそう思うのも当然だった。そこは確かにリビングでもあるのだろう。
しかし、それは来客を迎えるためだけに造られたように、何もかも整いすぎていて無駄なものは置いていない。
生活観が感じられない。観葉植物があったが、それさえも冷たい印象を残す。
部屋に一瞥をくれ、そさくさと歩き出した。今はそれどころではない。
ドアが二つあるので適当に選んでドアを開ける、急がねばならなかったが、見知らぬ場所ででかい音を
立てていいものかどうか分からなかった。ドアを開けたその先は別世界だった。
先程と同じく、窓にかかるカーテンはシンプルで悪趣味ではない、と思った。
柄は花柄で色はベージュの、シンプルなデザイン。
だが、その部屋の散らかりようは半端ではない。散らかっているのは主に服、だった。
夏物から冬物までさまざまな種類の服が床一面に散乱している。ベッドの上にも何着か放り出されていた。
ふと、小さな窓の方をを見ると、窓の前に人形が5つほど置いてあった。くまのキャラクターものだ。
利明はこの部屋の住人のことを測りかねた。
先程の部屋とはえらい差である。壁にポスターなんかも貼ってある。
だが、利明はこちらの部屋の方が好ましく感じられた。人間味がある。それが理由だった。
不意に襲ってきた感覚がそれどころではないことを思い出させる。じっくり部屋を見ている余裕は無い。(急がないと、な……)
利明は限界が近づいてる事を感じ取っていた。
いそいそと、なるべく静かにドアを開け閉めし、もう一つのドアへと手を伸ばす。
その先には玄関と、またも二つのドアがあった。
利明は適当に右側にあるドアを開けた。「……へ?」
瞬間、背の小さな少女と目に入った。自慢の金色の髪をバスタオルで拭いている途中だ。
思わず、利明の目は少女のあまり大きいとは言えない膨らみにくぎ付けになる。
一糸纏わぬ少女は、ぽかん、とした表情をしている。だがそれも一瞬の事だった。「きゃあああぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーー!!!」
耳を劈く高音が利明の耳を襲う。隣どころか三つ先の部屋から苦情が来そうなほどの声だった。
鼓膜は当然のごとく麻痺し、脳までシェイクされたような錯覚に陥る。「ななな、なにしてんのよ!! は、早く出てってよ!」
「すっ、すいませんっ!」
動揺しまくって、どもりながら言う少女の大声に我に返ると、利明はふらつく足でなんとかその場を離れた。
ドアが閉まってからも少女をしばらく硬直したままだった。(あ、あれって矢口…… だよな。ラッキィィ! 生乳拝めるなんてな!)
突然の事で下を見る余裕がなかった事を後悔する利明だった。
だが、同時に思い出すことがあった。(俺がした、不思議な体験は、夢じゃない…… ってことか……)
そして、利明はもはや一つしか残されてないドアへと入っていった。
先程から急いでいる原因――トイレへと。
だが、先程の光景が頭に焼き付いて、なかなか用を足す事ができなかった。(み、見られちゃった、よね…… やっぱ。あ〜、もう! 最悪じゃんかよ。
もっと気をつけとけばよかった……)そう思いながらも、矢口は自分の顔が朱に染まっている事に気付いていた。
ほとんど誰にも見せた事ないのに…… 矢口はやはり今日はメイク落としてすぐ寝れば良かった、
と激しく後悔した。(あんまり、身体には自信がないんだよなぁ……)
矢口は鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめる。そして、はぁ。溜め息が出る。
腰はくびれてこそいるものの、身長が小さいためかあまり目立たない。
胸もあんまり無いし、と思う矢口だったがそれは大きくはないが取り立てて小さいというわけでもない。
むしろ、その形のいい胸には多くの男性が好感を持つ事だろう。
スタイルに自信があれば見られてもそこまで恥ずかしくないのかなぁ、
と普段は考えもしないことを考えてしまう矢口だった。
とりあえず、利明に文句を言わねばならない。矢口は急いで服――パジャマではなく普段着――を着て
ドアから出て行くのだった。「――――で、君はなんであんな事をしたのかな?」
安らかな微笑み、もとい、表情筋だけで創り上げた笑顔で話しかける矢口。よく見ると唇の端や目尻が
ピクピク動いている。傍から見るとかなり怖い表情だった。
利明がようやく用を足し、ドアを開けるとちょうど矢口と鉢合わせてしまった。
そして、リビングに連れていかれ、質問(尋問?)される羽目になってしまったのだ。「ぃゃ、ぁの…… その…… と、トイレをですね……」
矢口の表情とその眼差しの恐怖から、自然と声が小さくなってしまった。
「トイレ? トイレにしたってちゃんとノックして入るべきじゃないの?
ここは人んちなわけだし。大体、勝手に動き回ったら駄目だとか思うんじゃない、普通」「そ、そんなこと言われても…… 気付いたらここにいたわけで……
それに、そんなこと考えてる余裕無かったんですよ」「そんなん言われても、おいらの気が治まるわけないじゃんかよ!」
利明はもはや、自分でも驚くほどに落ち着いていた。
あれほど喚き散らしていた自分が嘘のようだ。目の前で叫んでいる矢口を見ていると、なおさらそう思う。
強がりでも何でもなく、自然にこの世界の事を受け入れている自分がいる。今はその事の方が驚きだ。
もちろん、矢口の胸の事も考えていたが……「ちょっと! 聞いてんの!?」
「え? すいません。考え事してて」
「ちょっとぉ、あんたねぇ…… って、あれ?
そういや、だいぶ落ち着いてるね。どうしたの?」「いや、散々喚き散らして、眠ったら、何だかすっきりしまして。
なんであんなに取り乱したのか、今では恥ずかしいばっかりですよ」「ふーん…… じゃあ、とりあえずお風呂場を覗いた事は置いといて、そっちの話しようか」
なんだか、殴られて気絶した事は気付いていないようだったので、先にこちらの話を済ませてしまおうと
思う矢口だった。もう落ち着いている利明を矢口は強い、と思った。(ここだって、見知らぬところのはずなのに、こんなに落ち着けるなんて…… 凄いね。
でも、風呂場は覗くなよなぁ〜)「えっと、もう落ち着いてるから話すんだけど、おいらの考えでは君はこの世界の住人じゃないと思うんだ」
「はぁ…… パラレルワールドってやつですか……」
締まりのない声を出しながらも利明の頭の回転は速かった。そのことに矢口は感心する。
自分が全てを言い終わる前に結果を考えついている、と。
矢口が自分の考えを全て言い終わっても、さほど混乱した様子はない。「まぁ、今まで見てきたものを考えたら、俺もそうなんじゃないかな、って思います。
それしか説明できそうにないですし。それで、その、『穴』とかなんとかの能力って
実際どんなものなんですか? どこか違う世界と通じる穴を作るってことなんですか?」何だか矢口は冷静に話そうとしているだけでちっとも冷静に見えなかった。
頬なんかは朱色だし。だが、説教は勘弁して欲しいのでそんな事は口に出さない。「うん、大体そんな感じだよ。おいらの知り合いの能力は。正確にはちょっと違うけど」
「はぁ、それで矢口さん、のはどんなのですか?」
「それは企業秘密って事で、ね」
軽くウインクをして、微笑みながらそう言った矢口を見て、テレビで見るのとは比べ物にならない。
顔にうっすら朱がかかってるのがまたよい。
利明はそう思った。矢口のことを見据えられなくなって目をそらす。矢口の名前を呼べた事も嬉しかった。
緊張してどもってしまったが、名前を口に出す事は出した。「そ、それで、俺はこれからどうしたらいいんですかね。どうせ学校行っても俺、名簿とかに名前載ってないと
思いますし…… 家もないわけで」「あぁ、そう言えばそうだね」
そんな事は、すっかり失念していた。矢口としても頭がいっぱいだったのだ。
何故か利明が顔を伏せたので表情を気にする必要はなくなって矢口のメモリに少し空きができた。
確かにこの少年は、ここでは存在しない事になっている。何もやりようがない。「あのぉ、そこでお願いがあるんですけど」
「? 何?」
「えぇと、あの、矢口さん達の職場で働かせてくれませんか?」
「はぁ!? ちょ、何言ってんの。そんなのムリムリ。
事務っぽい仕事してるように見えたかもしれないけど、おいら達の仕事って言ってみればボディガード
みたいなもんだよ? 何の能力もない君じゃ仕事なんかできないって」「ボディガード、ですか。確かにそんな事はできませんけど…… あそこにパソコンあったじゃないですか?
事務の仕事も多少はあるんですよね? 別に給料はくれなくてもいいんです。ただ飯恵んでくれれば。
パソコンなら結構使えますし。帰る方法が見つかるまでの間だけでいいですから……」そう言われると特に断る必要もない、人手は足りてないし、事務の仕事は溜まるばかりで、
たまに石川に手伝ってもらっていたほどだった。パソコンを使える人間が少ないのも原因だ。(圭ちゃん一人で大変そうだしなぁ…… 帰る方法が見つかるまで、ねぇ。
……って、そういや、どうやって帰るんだ。そんな強い力持つ人いないよなぁ)「はぁ、まあいいや。とりあえず、また明日行ってうちの代表に聞いてみよ。たぶんいいって言うとおもうけど。
代表なんて言っても、形だけみたいなもんだし。人手も足りてないとこだったしね。
それより、帰る方法、の事なんだけど。……あんまり期待しないでね。
おいらだって不憫だと思うから、知り合いとか一応当たってみるけど……」「え? さっきは知り合いにそんな能力持った人がいるって……」
急に感情を隠すのが上手くなった気がしていた利明だったが、これにはさすがに対応できなかった。
思いっきり顔に出てしまった。呆然。「いるけどさ、そんな人を別世界に送る事のできるほど強力なわけじゃないの。
そいつの能力もこの世界ではトップクラスなんだけど、それでも30センチ四方くらいの穴しか
たぶん、開けられない。どこに通じてるかも分からないし」「そ、そんな……」
みるみる変わっていく利明の顔を見つつ、矢口はまた先程の再来になるんだろうなぁ、と思っていた。
ところが、少しすると、矢口の予想に反して表情は元に戻る。「じゃ、しょうがないですね。諦めてしばらくここで暮らす事にしますよ。
でも、帰る事を諦めるわけじゃありませんよ」さすがに無理をして言った台詞だった。だが、前みたいな醜態を晒すのは御免だ。
別世界である事を受け入れたように、これもまた受け入れる事ができるだろう。そう考えた。「強いんだね……」
「はい? 何ですか?」
「い、いや。何でもないよ。ハハハ」
乾いた笑いはむしろ、何でもある、と言わんばかりだったが、矢口はそんな事に気付かなかった。
思わずぼそりと呟いてしまったのは、心からそう思ったからだった。
利明は大抵の事には、何とかなるという考えをもっていた。それは吉澤ももつものだったが、
悪く言えば楽観的と言えるそれを、矢口は強さだと思っている。
そして、もう一つ。利明には耐え忍ぶ強さをも持っていた。これをもつ人間を矢口は頭に思い浮かべる。
矢口が、そして後藤や吉澤もが頼りにしている人間。
どちらも、矢口が欲しているモノ。自分に足りないと思うものだった。「別にいいですけど…… じゃ、明日何時に起きればいいんですか。
またあそこ行くんですよね?」「うん、9時に…… って、もう2時じゃん! 明日も早いからもう寝よ」
そう言った矢口だったが、何かを思い出したようだ。
正確には、思い出したふり、と言うべきか。「……でも、まだ話すことがあったね」
今度は微笑む矢口を見ても恐怖しか湧いてこなかった。この場から逃げ出したい。
利明はそんな衝動に駆られた。
それから、延々1時間以上、矢口の説教(文句)が続く。
やっとのことで解放された利明はソファに寝転がると約5秒程で世界がまどろみに包まれていくのを感じた。翌朝。利明は雀の鳴き声で目が覚めた。壁にかけてある時計を見るとまだ6時半だった。
(やっぱ、俺でも緊張してんだな……)
基本的にどこでも熟睡する事のできる――というかしすぎる利明だったが、
ここばかりは勝手が違うようだ。
3時間余りしか寝ていないため、頭が重い。利明は軽く頭を振って洗面所へと向かった。洗面所で顔を洗い、寝癖を直す。歯は、歯ブラシを用意してもらってないので磨く事ができない。
洗面所を出てトイレに行き用を足す。それらは5分ほどで済んでしまった。
泊めてもらったのだから、朝食くらいは作ってやりたいと思うのだが、あいにく利明は料理ができなかった。
だが、とりあえず冷蔵庫を開けてみる。キッチンの端においてあるそれは、かなり大きく、
天井との隙間があまりない。人が仰向けでぎりぎり、といったところだろう。(こっからどんくらいで着くのかわからないけど、時間になったら起きてくるよな……)
利明はそう考えて、テレビを見ていることにした。冷蔵庫に自分が作れそうなものが
入ってなかったせいでもある。朝っぱらからおもしろい番組がやってるはずもなく、
リモコンを少しいじって、利明は窓から朝日が降り注ぐ中、テレビに映るニュース番組を
ぼんやりと見つめていた。「ハァハァ、ごめんなさぁ〜い、お、遅れましたぁ……」
そう言いながら、ドアを勢いよく蹴飛ばす。今蹴られた部分は他に比べて酷く痛んでいた。
数回蹴っただけではこうはならないだろう。「遅いよ、矢口ぃ。うちは忙しいんだから遅刻厳禁だって何度言ったら分かるの」
「う…… ご、ごめんって言ったじゃんかよ……」
「ま、あんたの給料が減るだけで? 何の問題もないんだけどね〜」
「ちょ、ちょっと圭ちゃん? いや、圭様。それだけは勘弁してください」
「だって、矢口何度言っても聞かないんだもん。いい加減然るべき措置、ってやつをとらないと。
あんたより若いよっすぃーやごっちんがちゃんと来てるのに示しがつかないでしょ」「い、いや、でもぉ。今月結構金かかりそうなんだよ……」
「だぁめ。矢口の今月の給料は減額させて頂きます」
「そ、そんなぁ……」
がっくりと肩を落とした矢口。だが、すぐに入り口の方を振り返ると、
「あんたのせいなんだからねーー!!」
などと叫んでいる。当然そこには利明がいるわけで、だが利明はむしろ感謝して欲しいくらいだと
考えていた。通勤時間諸々考えて8時に起こしてあげたのは自分なのだ。
矢口の家から30分くらいだと適当に考えて起こしたのだが、それでは遅すぎると言う。(文句言われるくらいなら、起こさないで、俺も二度寝すりゃよかった……)
実際ここまでは駆け足とタクシーで、15分ほどで着いた。急がなくても20分少々だろう。
遅れたのは矢口のせいだと利明は信じて疑わない。
ドアをノックしながら大声で矢口を呼んで起こしたはいいが、一度洗面所に行って、再び自分の部屋に篭ると、
矢口が部屋から出てくるまでに1時間近くかかった。(確かに、えらい可愛く見えたし、ドキッとしたけどさぁ)
遅れるくらい入念にやらなくてもいいじゃねーか、利明は心の中でごちた。
ふと、矢口の唇に目が向く。ルージュがひかれたそれはとても色っぽく映った。(どんな感触なんだろ。やっぱ柔らかいのかな……?)
そう思ったのもつかの間、矢口のジト目が放つ妖気のようなオーラを感じ取り、
思わず後ずさった。「そ、そんな目で見ないでくださいよ。何時に起こせばいいか分からなかったんですよ?
起こしただけでもいい方じゃないですか。俺がもし寝てたらどうなったんです?
それにあれって十分間に合う時間だったじゃないですか」「う、ぐぅ……」
矢口の目元が引きつり、口元も歪んでいく。
「まぁ矢口の化粧は長いからね。それで、西岡利明くん、だよね?
私のことも知ってるの?」反論の余地もなく正論に押され、矢口が逆切れしそうになっていると、
そこへ助け舟を出すかのように声がかけられた。「あ…… はい、保田さん、ですよね?」
「うん、そう。でも私はこの世界でも有名だから知っててもあんまり不思議じゃないんだけど、ね」
利明は、はぁ、と曖昧に返事をした。この人たちの仕事は実際何なのだろうか。
ここで働く以上はもっとちゃんと知っておかねばならない。
さすがに詳しい説明があるだろうが……「で、さっそく仕事の事なんだけど、君パソコン使えるって言うんだよね?
ExcelとかWordも使えるって事?」「はぁ、まぁ一応は。簡単な事くらいですけど」
「へぇ〜、じゃあこれ、半分お願いね。その表の数字分かり易くグラフにしてくれればいいよ。
私の分終わったら手伝ってあげるから」保田はそう言って立ち上がった。業務用の回転する椅子が、ギィと音を立てた。
その手には1cmほどの紙の束を持っていた。「えっと、つーことはですね、ここで働いていいっていうことですよね?」
その言葉を不思議に思ったのか少し小首を傾けながら、保田は言う。
「え? もちろん。こんな良い条件で働いてくれる人なんて絶対いないからね。
別にバイト一人雇うくらいのお金はあるんだけど、安く済むならそっちの方がいいじゃない?
実際、いい加減バイトでも入れようと思ってたんだ。そこらへん、矢口も言ってなかった?」ええ、全く聞いてません。そう言いたかったが、まだすぐ傍に矢口がいる。
これ以上心象を悪くするのもよろしくない。その言葉を飲み込み、別の話題を切り出す。「あの、質問です」
何? と保田は微笑む。
やっぱあんまり可愛くはないな。そう思うのは利明。だが、保田の事が嫌いなわけではない。
むしろ、娘。全体の中では好きな方だ。顔は全く好きになれなかったが。「ここで何の仕事してるのかちゃんと教えて欲しいんですけど」
「矢口達からは何て聞いてるの?」
「ボディガードみたいな仕事…… とか言ってたと思います」
意味深に頷く保田。ちらちらと矢口のほうを見遣っている。
その視線を受け少しは矢口の表情が和らいだように見える。保田がどんな意思を矢口に送っていたのか
分からないが、少なくとも温かみのあるものだったのだろう。「……うん、分かった。じゃあちゃんと説明するわ。能力については矢口達から聞いたんだよね?」
利明が返事をするのを聞くまでもなく話を続ける。
「それでね、ここで働いてる、私、矢口、ごっちん、よっすぃーはみんな能力がとても強力なの。
どんな能力なのかは本人に直接聞いて欲しいんだけど、それで折角強い力があるんだら、ってことでね。
矢口が言ったように基本的にはボディガードの仕事がメインだよ。ただ」そう言って、保田は息を一度吸う。
「――ただ、違うのは暗殺なんかもするって事かな……」
―――――――――――――――――
利明がここ『保田会計事務所』で働き始めてから1週間が経とうとしていた。
もちろんその名前は、表向きにはそうだ、というだけで、本質を表している訳ではなかった。
その間に利明は表計算等のパソコンを介しての仕事なら完璧にこなせるようになっていた。
タイピングの速度がそこまで上がったわけではないが、手順をいちいち聞かなくても良くなったからだ。
今では書類関係は殆ど利明が処理できるようになっている。「ただいま…… あ〜、疲れた〜」
そう言って、どかっと椅子に腰をおろした。利明の座っている席からはかなり遠い。
「おかえりなさい、吉澤さん」
利明の座っているのはパソコンが載っている席の一つで通りに面した窓から最も離れた所だ。
つまりは入り口から見て、左という事になる。そして、今帰ってきた吉澤の席は、
面してある2つの窓側の机の奥側だった。当然、会話をするには不便だった。
利明のほうに椅子に乗ったまま移動していく吉澤。「うん、ただいま。でも、利明も大変だねぇ。一人でそんなに仕事して。寂しくなったりしないの?」
「いや、別にそんなに大変じゃないですよ。もともとパソコンいじるの嫌いじゃないですし。
まぁ、一人ってのは、ちょっと…… 寂しいかな」それに吉澤が悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
「ほらぁ、敬語使うなって圭ちゃんに言われたじゃん。ここで働くんだからそれ、治さないと。
私たち4人で最初に決めたんだからね。『職場は楽しいとこにしよう』ってね」「そ、そう言われても…… 急にはムリで――ムリだって」
利明は自分でもあまり対等と思ってない為か、はたまたまだ萎縮してしまっているのか、
なかなか敬語を止めることができないでいた。自然に喋ろうとすると無意識に敬語になってしまう。「う〜ん、まぁそれはもうちょっとすれば何とかなりそうなんだけど、吉澤さんって呼ぶのもやめようよ。
最初にさん付け止めろって言われたでしょ」自分も保田とは長い間敬語とさん付けで会話していたというのに、吉澤はそんな事は棚上げにしていた。
――あるいは、忘れてるだけかもしれないが。「えー、でも何て呼んだらいいか困るし」
「そんなん、何でもいいっていったじゃん。最初にみんな。みんなだって利明の事利明って呼んでるんだし。
あだ名でも呼び捨てでもなんでもいいんだって」(どうするか…… 『よっすぃ』? 『ひとみ』? ――どっちかだよな)
それぞれ、自分が呼んでみた場合を妄想してみる。
『よっすぃ』と呼んでる自分はなんだか酷く不自然な気がした。
それは、『ひとみ』と呼んでも同じことだったがこちらのほうがいくらかいいように思えた。(『ひとみ』、でいいかな。ちゃんとタメ口聞けるようになればまともに聞こえるだろ。たぶん)
「えぇと…… じゃ、じゃあ、ひとみ」
「ん、何? 利明」
吉澤は微笑んだ。自分がさん付け解除の第一号だ。ひとみと呼ばれると何だかくすぐったかったが、
それでも対等に話せる者が、また一人増えたのが嬉しかった。
こんな仕事をしていると、余り友人などできないし、また、作らないほうがよい。(私は、あんまりこいつに帰って欲しくないかも、な)
柄にもない事を考えてしまうが、吉澤はまだ18の少女である。
そう考えるのも、そうおかしい事ではないのかもしれない。―――――――――――――――――
近くで爆発音が聞こえる。同時に、ガラガラと巨大な石か何かが崩れる音も。
利明は、保田の提案により、最近よく仕事を見物させられていた。
――もちろん、危険の少ない仕事に限ってだ。
利明がこちらに来てから、最早一月が経過しようとしていた。
既に保田がパソコン仕事をしなくなって久しい。
よって毎日結構な量を一人でこなす必要がある利明なのだが……「あんた、今日吉澤についていきなさい」
突如として、保田がそう告げたのは、一週間前の事だ。
その日は、夏も終わろうかというのに、とても暑く、窓辺で仕事をする利明には地獄とも言えた。
クーラーを効かせ過ぎるのを嫌う保田は、設定温度を27度以下にするな、と言うのだ。
お陰で直射日光を浴びる利明は室内の仕事だというのに、着替えを必要とするほどだった。
保田曰く、そろそろ仲間の仕事も知っておいた方がいい。とのこと。
利明の仕事は保田が変わりにしてくれると言うので、興味も手伝い、吉澤に付いていく事にした。吉澤の仕事振りは、見事としか言いようが無かった。
脅迫を受けているらしい家の子供を守る、という仕事だったようだが、
吉澤がしたことといえば、少しばかり自分の力をちらつかせ、一言発しただけだった。
おもむろにナイフ――両刃のナイフだ――を取り出し、空中でクルクルと回す。ただ、それだけ。
回りつづけるナイフを4本ばかり携え、脅迫者と思しき男に寄っていって何か呟いた。
後で、利明が聞いたところによると、二つ以上の物質を操る事は非常に難しい、とのことだ。
この手の能力を有する者は、投げた物体を曲げるといった程度の事しかできない事が多い。
空中で回転させる、など、出来る者がいるとすれば、完全に次元が違う。それも4本も。
吉澤に何か囁かれると、男は酷く怯え、幼子のように顔を歪めると共に、走り去った。「こんなのは、才能だからね」
いとも簡単に仕事を終えた吉澤の言葉。何だか楽しそうに笑っているようにも見える。
実際、いつも吉澤は仕事を愉しんでいた。人の顔が恐怖で歪むのを見るのが好きだった。
自分の考えが異常であることに気付いてはいても、仕事で感じられるのは、愉悦。
利明はそんな吉澤の思考を知る由もなく、改めて保田の下で働く皆の凄まじさを痛感するのだった。そんな記憶を思い出しながら、爆発音のしたほうに目を向ける。
聳え立つビルの一つにどでかい穴が開いていた。遠めでも分かるそれは、地上50メートル辺りにあり、
大きさは2・3階に渡るようだ。崩れ落ちる瓦礫の下から何やら甲高い声が聞こえる。
待っている間、とりとめも無く描いていた、足元の絵を擦り消し、利明は声の主の下へ向かった。「ごっつぁ〜ん? おいらを殺す気ですか〜?」
利明の予想通り、声の主は矢口だったようで、ぶーたれていた。
どうやら、後藤の能力で、あの穴を生成したようだ。(無駄にでかい穴だな……)
利明がそう思うのも当然で、仕事内容は人一人を亡き者にするだけのはずだ。
現代の若者ゆえか、利明は暗殺という仕事にそれほどの抵抗を覚えない自分に気付いた。
そのことが、逆にショックだったものだ。
抵抗が無いとはいえ、決定的瞬間は見たくないので、離れて観ていたのだ。
周りには無数の瓦礫。まだ、ぱらぱらと落ちてくる破片を見れば、矢口が怒っている理由は明白だった。
矢口にしてみれば、本当に殺されかけているのである。芸能人の笑顔は反則的だ。吉澤の笑顔を見て利明はあの胡散臭いプロデューサーの顔が
頭に浮かんだ。曰く、「天才的にかわいい」と。
今の笑顔にはそう思わせるだけの力がある、そう感じさせられた。「…………」
「お〜い、利明。どうした?」
そう言う吉澤はニヤニヤとシニカルな笑みを浮かべている。
「い、いや…… 別に…… ただ、そのぉ……」
「照れてんでしょ?」
「そ、そんなことは…… ある、けど……
しゃーないでしょ。じょ、女子の事名前で呼ぶとか小学校以来、だし。
中学から男子校で話すのに慣れてないんだから」「あれ? でもやぐっつぁんとかと普通に話してるじゃん」
吉澤の言う事ももっともだった。確かに利明は特に女性が苦手なようには見えない。
「向こうから話し掛けてくれればいいんですけど、自分からは……
敬語はさんでるから年上との方が話しやすいですし」言ってから、何かに気付いた様子の利明。
「ほらぁ、また敬語」
そう言って、利明の額を指で小突く。
吉澤は笑いながら、気をつけろよ〜、と言って、そのまま扉から出て行こうとする。
利明は不思議に思った。今日の仕事はもう無いはずである。「よしざ、……ひとみ。もう、今日の仕事は無いはずだけど」
まだ、照れが残っているのか、いや、確実に照れているのだろう。
利明の顔は真っ赤とは言わないまでも、耳まで変色している。
そんな利明の表情を見て、極上の笑顔を向ける吉澤。見た目は天使のようだが、
利明の顔をさらに赤くしようという、その内心はどちらかと言うと悪魔に近い。「今日は疲れたからね。利明と喋ってるのも楽しいけど、やっぱ仕事に差し支えるようじゃまずいじゃん?」
そこで、吉澤は悲しそうな顔をする。その表情作りは本物の女優としての素質を見せた。
実際の演技でもこれができれば、監督からはさぞ誉められる事だろう。「……だから、帰らないと、ね」
そう言って、ドアから出て行く吉澤に利明は何も声をかけることができなかった。
吉澤が道路を歩いていくのを、窓から見つめる。
ドアの閉まる音が、いつまでも耳に残っているような気がした。
沈みかけた気持ちを立て直すために、再びパソコンへの仕事へと向かう。
パソコンの横に置いていた、飲みかけのオレンジジュースを口に含む。
オレンジの酸味が、心地よく口の中に拡散した。「いや〜、ごめんごめん。こんなに手元が狂ったのは初めてだよ。いや、ホントにね」
頭をぽりぽり掻きながら、怒り狂う矢口の相手をする後藤。
ふざけた口調ではあるが、自分の想定以上の力が発動した事など今回が初めてだ。
初めての経験に、誰しも多少の焦りはある。「まぁ、とりあえず任務完了ってことで」
「ちっ、次やったら許さないからね」
そう言って、矢口は歩き出す。不思議と大通りにもかかわらず人は一人も見当たらない。
一同は歩いて『保田会計事務所』まで戻っていった。
人はいなくてもやはり暑い。事務所まで戻ると皆汗を流していた。「んじゃ、戻るよ」
矢口がそう言うが早いか、視界が歪んでいった。
「――――おっ、みんなおつかれ」
キーボードを叩く手を止め、保田は労いの言葉をかけた。
突然、目の前に矢口たちが現れるのには、もう慣れたものだった。いつもの事だ。
利明でさえ、何度も遭遇した事がある。「ちょっとー、圭ちゃん聞いてよね」
無駄に高い声を発しながら、矢口は保田のもとへ詰め寄っていく。
保田の使用しているパソコンの横に置いてあったコップの中で、カラン、と氷が音を立てた。
しかし、そんな音は矢口の愚痴によって誰の耳にも届いていなかったが。「ふ〜ん、後藤がねぇ……」
矢口の話を聞いている間、保田の発した言葉はそれだけだ。
怒りに任せて喋っているだけの矢口だが、受け手の保田は、真剣に聞き入っていた。
利明には、いつもより更に顔がきつく見えた。
当の後藤は、素知らぬ顔で机についてパソコンを弄っている。
もちろん、仕事ではない。インターネットで遊んでいるのだ。
利明は、正直後藤を苦手としている。――何故か?
後藤は、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。利明の事を意図的に避けている。
矢口達のように気さくに話し掛けてくれる人達ばかりでないのは当然だが、
利明の方から話題を膨らませようとしても、会話は全く成立しなかった。
あぁ、とか、うん、とかいった程度の言葉しか後藤は口にしなかったのだ。(ひとみや真里と話してる時みたいに、とまでは言わないけど…… 普通に話くらいして欲しいもんだな)
そう、利明は思う。同時に後藤がどこか、幼児のような印象を与えているように感じる自分に、
戸惑いを覚えた。見知らぬものへの恐怖。ただ、そこには強力な好奇心は無かった。
無理にでも多く話をしようとしないのは、そんな事を心のどこかで悟っているからかもしれない。
それに、名前や相性で呼んでないのは、今となっては後藤だけだ。
矢口には『真里』、保田に到っては『圭ちゃん』と呼ぶよう強要され、それに従っている。
形から入るのも悪くない。その時の矢口や保田はそう思ってしたことだった。
もちろん、それは悪くなかった。”後藤さん、真希って呼んでいいですか?”
利明がそのような事を聞けば、恐らく後藤は、いいよ、と一言だけ返してくることだろう。
だからと言って利明と後藤の距離が少しでも縮むわけではない。
後藤は呼び名だけ変わっても心を開いてくれそうもない。「後藤、ちょっと……」
利明が、ぼーっととりとめもなく後藤との関係を考えていたところ、
後藤の方を向いていた利明の視界に、保田の姿が侵入してきた。
一言二言後藤と言葉を交わし、二人で一つだけしかないドアから出て行った。「今日の仕事は、とりあえずもう終わり」
去り際に保田がそう告げたので、利明は後を追った。
矢口も一人だけ残ってもしょうがないので、黙ってドアを潜り抜ける。
第一、鍵は今となっては利明が管理しているようなものなので、残る事はできない。(家帰っても暇なんだよなぁ…… 利明が残るようなら、話でもしようと思ったのに)
少し寂しい気もしたが、利明が帰ろうとするのを引き止めてまでする事じゃないな、
そう思い、今日のところはおとなしく帰ろう、そう思う矢口だった。「真里、今からちょっといい?」
そんな矢口の気持ちを知ってか知らずか、利明の台詞。
もちろん、矢口は暇だった。むしろ、暇で暇でしょうがないくらいだ。
だが、何故利明がそんな事を言い出したのかが分からない。「どうしたの? 利明から誘いの言葉をもらうなんて……、珍しいね」
さすがに飲みに連れて行ったりしたことは無いが、一緒に食事に行ったことなら何度かある。
だが、そのどれもが、矢口が誘って行ったものだった。利明がまだこの仕事や矢口達に
慣れていなかったので、仕方ないと言えば仕方なかったのだが。「いや、圭ちゃん達が家に帰って話してたら、俺ちょっと邪魔かな、って。
もう合鍵もらってるから、いつ帰っても問題ないし」「ふ〜ん……」
「ちょ、おい、駄目なのか?」
足早に階段を下りはじめた矢口に、追いすがるような声をかける。
(お、怒った?)
何だかよく分からないが、急いで利明も階段を下りる。
夜ともなれば、だいぶ涼しくなるが、まだ日の沈みきらない今、若干暑い。
尚も歩を進める矢口を追いかけていると、少し汗ばんできた。
追いついて、肩に手を置く。
矢口は驚いて、ビクッと身体を震わせる。
力を入れて、振り向かせる。
その顔に浮かんでいたのは――笑顔だった。「なぁにぼけぼけっとした顔してんの?」
ビルの乱立する中で、たまたま遮られる事なく差し込んだ夕陽を背に、矢口は笑う。
こんな可愛らしい笑い方も、美しい笑みも浮かべられるのは、矢口ならではだ。
子供と大人、その二つを普段から覗かせるのは矢口しかいない。(……後藤さんも、あっちの世界じゃそういう感じだったのにな)
「え、あの、なんか怒ってるみたいだったから」
「はぁ? 怒る理由なんか無いじゃん」
「それはそうだけど、なんというか、オーラ? みたいのが……」
「キャハハ、なにそれ」
「……まぁいーけどね」
そうして二人は食事を求め、夜の街へと繰り出していった。
今度は逆に矢口が利明をなだめることになってしまっていたが。―――――――――――――――――
玄関のドアを開けるとそこには闇があった。
ただいま、と言おうとしてスタンバイされていた口を閉じ、その闇の中を歩き出す。
電気を点けずとも、利明はもうすっかりどこに何があるか覚えていたし、
段差の全く無いこの部屋では、躓くような事もない。(圭ちゃん寝たのか……)
事務所を後にして既に三時間ほどが経過している。
利明がそう思ったとしても誰も責める事はできないだろう。
後藤の事を訊ねたかった利明だが、寝てしまったのでは仕方ない。
そう思い、布団に包まった。――数分後、意識の殆どなかった利明の耳が、玄関の扉が開く音を拾った。
鍵は、ちゃんと閉めたことを思い出す。(と、すると圭ちゃんまだ帰ってなかったのか)
ピッキングでもされていなければ、それしか考えられない。
利明は、自分の部屋――保田の借りている部屋には空き部屋が三つもあった――から
出て、保田を出迎える事にした。ただで住まわせてもらっているのだから。と、利明自身には当然だと思えた。あれは、初めて保田に会った日の事だ。
住む家が無いので事務所に住み込みで働かせてくれと頼む利明に保田は、「私の所、部屋三つも空いてるから。ここに住まなくても一部屋貸したげるわ」
そう言って、この部屋を貸してくれた。だから、保田の言う事はなるべく聞いている。
だが、全く頭が上がらないわけでもない。第一そんな状態は保田が快く思わないだろう。
例えみんなと平等だと思えても、保田は一つ上のランクだと思いつづけるだろう。
その時、利明はそう思った。実際、それは事実となりつつある。そんなこんなで、利明は保田の帰宅の際にはなるべく出迎えるようにしている。
扉が開く。そこには保田がいるはずだった。
だが、そこに立つ女は美しいブラウンの長髪の持ち主だった。「……後藤、さん……?」
なんでここに? 若干驚き、その言葉が続かない。
利明が混乱していると、後藤の背中から保田が現れた。
事務所で後藤にしたように利明を自分の部屋に引っ張る保田。
ちょっとそこで待ってて、と顎をしゃくりリビングの方を示す。後藤への指示も忘れない。「圭ちゃん、一体どういうことだよ」
今まで外にいたのなら、普通は後藤への用件は終わっているはずである。
それに、今更家で何をしようというのか。「あぁ、ちょっと後藤もここで暮らさせようと思ったの」
利明の頭の中で理解しきれない言葉がリフレイン、理解するのを拒む。
数瞬して、「はぁ〜〜〜〜?」
利明がこのような素っ頓狂な声を上げたのは言うまでも無い事だ。
第一何のためにここに後藤が来るというのか。そもそも後藤の住むマンションの方が、あの事務所までは近いのだ。