248
みんまやたちの夜 投稿日:2003/07/26(土) 16:59
〜気をつけよう、甘い言葉と暗い道〜
安倍麻美は、その看板を見てつい笑ってしまった。
姉の安倍なつみが、
「気をつけよう、甘いケーキと太い足」
なんて言っていたのを思い出したからだ。
「おいしい物はおいしいもんね」
と、麻美は口に出して笑った。
麻美は、一人で家に帰る途中だった。だから独り言も、いく
らかは景気づけ、というところもあったのだった。まだ十月も
初めだったけれど、陽が落ちるのはもう随分早く、暗くなると
ぐっと気温も下がって、肌寒いくらいになる。自然と、気持ち
も沈みがちになってしまうのだ。麻美の家は、最近越してきたばかりの新築のマンションで、
姉と二人暮らし。駅からマンションまでは、家のあまり建って
ない寂しい道が多かった。時々、帰りの遅いOLなんかが襲わ
れそうになったという話もある。麻美は上京して結構たつが、
まだ都会への警戒心は緩めてはいない。ーーそう。「A」だって未経験のわたしとしては、どこの誰
ともわからない男に、無理矢理「C」されてしまうなんて、ど
うしたって許せない。
もちろん姉のなつみも、その点は非常に気にしていて、
「絶対、暗くなってから独りで帰んのは駄目だかんね!」
なんて言ってるんだけど…。けど結局、一緒に帰ろうにも、迎
えにきてもらおうにも、お互い仕事が急がし過ぎて、時間が合
うことは滅多にない。
ーーまあ、しょうがないよね。お姉ちゃん大変だしね…。
なかば、諦めてしまっている麻美であった。そんなことを考
えながら、麻美は足早に家への道を辿っていった。少し風が出てきていた。
木立の間の、一番寂しいあたりにかかると、風が枝をかき鳴
らしていて、なんだかあまりいい気分ではなくなっていく。で
も、もう少し行くと、いつもお菓子などを買っている食料品の
お店が見えて来て、その先はずっと家が並んでいる住宅街。少
しも危ないことなんてないはずだ。
ーーもうちょっとだ。
麻美は足を早めた。その時、不意にすぐ後ろで茂みがザーッ
と揺れた。風のせいにしてはおかしい。麻美は思わず振り向い
た。「いや〜、遅くなった〜」
なつみは玄関にブーツを放り出すように脱ぐと、
「麻美〜!」
と、呼びながらキッチンへ入っていった。明かりをつけて、
リビングを覗く。だが、誰もいなかった。
「麻美?」
部屋を覗いても、麻美はいなかった。
「まだ、帰ってきてない…?」
なつみは時計を見た。十一時五分前だ。いつもなら絶対に家
にいる時間なのに。スケジュールを調べると、今日最後の予定
はボイトレとある。歌の先生の所で手間取っているのだろうか
?
ーーまあ、子供じゃないんだし、大丈夫だとは思うけど…。
そう思いながらも、携帯の留守録を確認する。無いことを確
かめると、すぐに、麻美の携帯へつなげる。応答はなかった。
「まさかねぇ…」
不安になったなつみは、駅まで探しに出ることにした。「ったく、心配させんじゃないよ…」
と言いながら、玄関へーー。そして、ギョッとして立ちすく
んだ。
麻美が、玄関に立っていた。
「麻美、なんでこんな遅くーー」
と、つい口から言葉が出かかったが、すぐに身体の異常な事
態に気づいた。
麻美は、夢でも見ているかのように、虚ろな目で、じっと空
を見つめていた。頬に泥がこびりついている。髪が半ば顔にか
かっていた。コートの片方がずれ落ち、下のブラウスのボタン
がちぎれ、前がはだけていた。スカートにも泥がついて、足に
はすり傷がある。
「麻美…麻美…」
なつみは繰り返した。当人より姉のなつみの方がうろたえて
いる。
「あがって。麻美、おいで」
抱き抱えるようにあがらせる。
「部屋行くべ。…ほら、歩いて」
混乱していたせいか、その時なつみは、このスカートまだ買
ってあげたばかりなのにな…、などと考えていた。二人は麻美の部屋へ入った。
「おねえちゃん…」
「何も言わなくていいよ。とりあえず服脱いで、着替えよ」
なつみは真っ青になっていた。聞かなくてももう何があった
のか、分かっていたからだ。まさか、妹の身にこんなことが起
きるなんて…。
服を脱がせてみて、なつみは思わず身震いした。背中や太股
についた、無数の引っかき傷。赤く、ミミズ腫れしている。
ひどい…。こんなの…ひどすぎる…。
「ごめんね…、麻美…。ごめん…」
なつみの目から涙が溢れ出る。震える手で、妹の裸体を濡れ
タオルで拭ってやりながら、なつみは心の底から悔やんだ。
──わたしのせいだ…!わたしの…!
自分でも訳のわからないことを呟きながら、なつみは懸命に
麻美の身体についた泥を濡れタオルで拭った。
「痛い」
麻美が言った。
「…え?」
なつみがポカンとする。
「そんな擦ったら痛いよ」
「ああ…、ごめん。大丈夫?」
麻美が黙ってうなづく。
「お風呂入りな。今沸かすから」
「シャワーでいいよ」
「そう? じゃちょっとまってて」麻美が浴室でシャワーを浴びている音を聞きながら、なつみ
は着替えを持って立っていた。やっと少し落ち着きかけてきた
。
──これからどうしたらいいんだろう。…まず、医者に連れ
て行こう。乱暴されたとはいっても、犯されるところまではい
ってないのかもしれない。でも、最悪の場合は妊娠の可能性も
ある…。やっぱり、お医者さんに見てもらわないと。でも、近
所ではだめだ。人の目につかない、どこか遠くの病院へ…。
「おねえちゃん」
「…あ、着替えね。はいこれ。麻美、お腹空いたっしょ?
ねえちゃんご飯作るね」
そういって、なつみはキッチンへと消えた。