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名無し次郎 投稿日:2003/08/14(木) 23:18

人気のない校舎に、春の日差しがさしこむ。
ぼんやりした光は木造の長い廊下を包みこんでいる。
始業式が終わって、雄一は廊下に足を踏み入れた。
まぶしい光で少し目がくらむ。
肩のギターを背負いなおして、雄一は旧校舎の廊下を歩き出した。
向かっているのは吹奏楽部の部室だ。
今日こそそこへ行かなければならない。
自分のギターの腕前を見てもらい、無理にでも入部するのだ。
サッカー部の退部届けはポケットの中に入っている。
吹奏楽部に入部した後、サッカー部の顧問にこれを叩きつけるのだ。
いつまでもグズグズしていちゃいけないんだ。
雄一は固い決心のもと、廊下を歩いていた。
古びた床は歩くたびに軽くきしむ。
廊下の左側は一面が窓で、右側には教室が並んでいる。
ほとんどが使われていない教室だ。
ホコリだらけの理科実験室の隣に、吹奏楽部の部室はあった。
ドアの上の壁に『吹奏楽部』と大書された模造紙が貼ってある。
雄一はドアを前にして、緊張感を抑えようと必死だった。

ドアの向こうには何十人もの部員がいるはずだ。
今ドアを開ければ部員たちは間違いなく自分に注目する。
自分はその中で入部したいと伝え、さらにギターを披露しなければいけない。
高2から途中入部するのだから、そのぐらいのことはした方がいいに違いない。
いいに違いないが、果たしてそんなことができるだろうか。
もしかしたら鍵がかかってるかもしれない。
それに気付かずドアをガチャガチャやって中の部員たちに気付かれたら相当恥ずかしいだろうな。
もしかしたら中では重要な会議をやってるかもしれない。
ありうるぞ。
今日は始業式なのだから、吹奏楽部だって派手な宣伝をやるに違いない。
その会議中に乱入すれば顰蹙を買うに決まってる。
雄一はドアの前でじっと考えこんでから、ドアに耳を当てた。
中からは物音ひとつしない。
会議中ではないのかもしれない。
思いきってドアに手をかけると、呆気ないほど簡単に開いた。
中には女子が一人、ぽつんといるだけだった。

「誰ですか」
突然、女子が口を開いた。
「吹奏楽部の部員じゃないですよね」
その口調は整然としている。
「高2の小島雄一です」
知らない顔だ。
相手は机の上に座って足を投げ出している。
「なんだ、同い年かぁ。何しに来たん?」
女子は口をにっと開いて、急に親しげな調子になった。
言葉のイントネーションも何となく変わった。
どこかの方言かもしれない。
同学年と知って、雄一も気が楽になった。
「あの、入部しようと思って」
「今はみんな出ちゃってるんよ」
「え?」
「体育館で新入生歓迎の演奏会やってる」
「あ、そう……」
「タイミング悪かったね」
雄一はその場から一歩も動けないまま、女子の話を聞いた。
せっかく決意を固めて来たのに、すっかり空回りしてしまった。
ついてない。
また明日出直してくるような元気はなかった。

「それじゃまた今度来るから」
雄一は女子に背中を向けて、部屋を後にしようとした。
「それ、ギター?」
女子は雄一を引き止めるように声をかけた。
「ギター弾けんの?」
「うん、まあ」
雄一は振り向いて答える。
「ちょっとだけなら」
「だから吹楽に入ろうと思ったんだ」
「そう」
「でもね、吹楽ってそんなにいいとこじゃないんよ」
出し抜けに、女子はそう言った。
「これ、何か分かる?」
女子はポケットから紙切れを取り出して、雄一に見せる。
雄一のポケットに入っているのと同じ紙切れだった。
「私、今日、このクラブやめるんよ」

そう言ってから、退部届けを丁寧に畳みなおしてポケットにしまった。
「考えなおした方がええと思うよ」
そう言う声はトーンが低く、どこか寂しかった。
雄一は何も答えられなかった。
そしてこの女子が何故ひとりで部室にいるのかも、よく分かった。
「ごめんね、なんか引き止めちゃって」
苦笑いを浮かべながらそう言う姿も、楽しそうではない。
「いや、別に」
「入部するんだったら明日の放課後にでも来たらええよ」
そう言って女子は手を振る。
雄一は曖昧な笑みを浮かべて部屋を出た。

雄一がサッカーを始めたのは、小学4年生の春だった。
今年で丸7年になる。

中学校に入学した時は、迷わずサッカー部を選んだ。
それ以外に自分の特技はないのだ。
小学生の頃からサッカーを始めていたから、部内では実力のある方だった。
最後の一年間は副部長も務めた。
そして当然、高校でもサッカー部に入部した。
レギュラー争いは中学より熾烈だったが、雄一にとってはそれほどでもなかった。
顧問に退部届けを突き出したら、何と言うだろうか。
雄一は新しい担任教師が自己紹介をしている間、そんなことを考えていた。

「それじゃあ順番に自己紹介してもらいたいと思います」
顧問がそう言うと、端の席の生徒から立ちあがって自己紹介を始めた。
全員、名前やクラブだけ言って腰を下ろす。
雄一の番がきた。

「小島雄一です。よろしくおねがいします」
それだけ言って席についた。
「お前、サッカー部だろ」
サッカー部の部員が声をあげた。
「小島くんもサッカー部か。このクラスはサッカー部が多いな」
担任の声にも反応せず、雄一は黙りこんだ。

それからも雄一はクラスメイトの自己紹介を聞き流していた。
大して面白いことを言うやつもいない。

「じゃあ次、高橋さん」
担任が名前を呼ぶと、後ろの方の席で女子が立ち上がった。
「高橋愛です。帰宅部です」
聞き覚えのある声だった。
雄一が振り向くと、昨日、吹奏楽部の部室にいた女子だった。

同じクラスだったなんて、全く気付いていなかった。
相変わらずの方言でしゃべっている。
「よろしくお願いします」
高橋は雄一に気付いていないのか、一瞥もせずに腰を下ろした。
帰宅部ということは、やはり昨日退部したのだ。
しかし何故、始業式に退部したのだろうか。
どこかのクラブに興味でもあるのだろうか。
少し早いが大学受験の準備かもしれない。

ぼんやりと高橋の方を見ていると目が合った。
雄一は気まずくなってすぐに目を伏せる。
「次は松浦さん」
「はい」
返事すると同時に呼ばれた女子が立ちあがった。
男子の注目が一斉に集まっているのが、手に取るように分かる。
いや、男子だけではない。
女子の視線も松浦に集まっているようだ。

雄一が見やると、顔立ちの整った女子が口を開いた。
「松浦亜弥です。テニス部です。
 えーっと、皆さん仲良くして下さい。よろしくお願いします」
松浦は小さく頭を下げて、席についた。

何となく華のある女子だな、と雄一は思った。
皆の注目を集めるのも分かる。
「次、宮田くん」
「はーい」
松浦の後ろの席に座る男子は間延びした声で返事した。

「どーも、宮田です。
趣味はエレキギターですけど、ブラスバンド部がないんで誰か一緒に作りましょう」
「無かったっけ、ブラスバンド部」
担任は興味ありげに尋ねる。
「無いんですよ。だから誰か楽器やってる人がいればねえ」
宮田の言葉に、雄一はそれとなく耳を傾けていた。

その日もサッカー部には顔を出した。
同じクラスの部員たちに、有無を言わさず連れられたのだ。

「最近サボってない?」
下校の道すがら、同じクラスの部員にそう訊かれた。
「別に……」
「俺らの学年の中ではお前、かなり上手い方なんだから来ないともったいないよ」
雄一は口をつぐんだ。
誰かに相談するような気持ちではなかった。

「……まあいいや。
 そういえばうちのクラスに松浦がいるよな」
「そうだな」
「なんか高嶺の花って感じだよな」

ふと、雄一は気になっていたことを尋ねた。
「松浦って有名なのか?」
「え?」
「なんか、みんな注目してたけど」
「そりゃ有名だろ、あれだけかわいかったら」
「……そうだな」

雄一は内心、松浦亜弥のことが気になっていた。
一目惚れというやつじゃないだろうか。
なんだか外見だけで好きになったようだが、実際気になるんだからしょうがない。
「松浦って何部?」
「確かテニス部だと思う。
運動神経はいいらしいけど」
「成績は?」
「さあ。そこまでは知らない」
雄一もそれ以上訊くことはできなかった。

読みにくいかと思って、適当なところで間を置いてみました。
男ばっかり出てきて申し訳ないですが、しばらくはこんな感じです。
もしかしたら最後までこの調子かもしれませんが(w

翌日、英語の教師は自己紹介もせずにすぐさま授業を始めた。
「教科書、全員持ってきてるな」
雄一は険しい顔つきの教師を見てため息をついた。
大抵の教師は自己紹介で時間が潰れるから、教科書は持ってない。
しかし厳しい顔を見ていると忘れたとは言いづらい雰囲気だった。

「すいません、忘れました」
いきなり後ろの方で声がした。
見ると高橋が手を挙げている。
「すいません、僕も忘れました」
雄一が慌てて手を挙げると、何人かの生徒が次々と手を挙げた。
「なんだ、こんなに忘れてるのか。
 たるんでるぞ、お前ら」
教師は不機嫌そうに舌打ちをした。

「先生」
高橋が再び手を挙げた。
「なんだ」
「教科書を忘れたのは私のミスですが、先生が舌打ちするのもどうかと思います」
高橋は淀みない口調でそう言った。
そこには雄一が吹奏楽部の部室で聞いた、変わったイントネーションはどこにもない。
「舌打ちなんかしてないぞ。
 気のせいじゃないのか」
教師は平静を装っていたが、しきりに指で教壇を叩いていた。

休み時間、高橋の周りには女子の人だかりができた。
「愛ちゃんすごいじゃん、あんなにはっきり言うなんて」
「相当見なおしちゃった」
口々に高橋を誉める女子たちに対して、高橋はいつもの方言混じりの言葉で答えた。
「私、舌打ちとか嫌いなんよ。
ああいうのは最初に言っとかなきゃダメでしょ?
 だから思いきって言ったんよ」

女子たちの中には松浦亜弥の姿もある。
「私もあの先生好きじゃなかったんだよね。
 だからスッキリした。
 ありがとう、高橋さん」
「それほどでもないって」
高橋は照れ笑いを浮かべている。

雄一は定まらない視線で高橋と松浦を見ていた。
高橋は突然友達が増えてはしゃいでいるように見える。
無理もない。
今まであまり目立たない存在だったし、大勢で動くタイプでもないようだから。

「よく教師にあんなこと言えるよな」
誰かが雄一の側でそう話している。
「俺なんか教科書忘れたのに手も挙げられなかったよ。
 ちょっと、聞いてる?」
雄一が振り向くと、目の前に男の顔があった。
「え? 俺?」
「そう。小島やったな」

自分の名前を覚えている生徒がいるとは思わなかった。
「俺の名前、覚えてる?」
「……宮田?」
「そう、宮田」
自己紹介のインパクトが強いため、雄一は宮田の顔と名前を覚えていた。

「なんか用?」
「お前、ギターやってるんだってな」
「……やってるけど、なんで知ってるんだ?」
「サッカー部の連中から聞いた。
 あのー、俺の自己紹介聞いてた?」
宮田は視線を外せないほどの至近距離でしゃべっている。

「ブラスバンド部作りたいってやつ?」
「そう、それ!
 勘いいねえ」
「あれ本気?」
「本気。相当本気」
宮田は真顔で答えた。

「それで、楽器やってるやつにどうしても加わってもらいたいんだ。
 最悪の場合二人だけでも部は作れるから」
「でも確か、同好会から始めなきゃいけないんじゃないの?」
「そんなの同好会でもなんでもいいんだよ、勝手にブラスバンド部って名乗ってれば」
「なんか楽器できんの?」
「一応、エレキギター。中学3年間やってた」
「俺、エレキじゃないよ。
 アコースティックしかできないんだけど」
「全然オッケー。
 エレキとアコースティックのセッションもカッコよくない?
 コラボレーションってやつ」

宮田はどうしても雄一を仲間に引き入れたいらしかった。
「とりあえず考えといてよ。
 俺のアドレスと番号、教えるから」
雄一は言われるままに宮田のケータイを受け取り、アドレスと番号を登録した。
「気が向いたら連絡ちょうだい」

丁度その時教師がやってきた。
宮田は素早くケータイを隠して、そそくさと自分の席についた。

その日の部活は新入部員に練習のやり方を教えることになった。
グラウンドに新入部員を座らせて、練習の流れを説明する。
顧問が一通り説明し終えたところで、基本的な練習を始めた。

まずは新入部員だけでドリブルの練習をやらせる。
ほとんどが経験者だからそこそこはこなせる。
次はシュート練習を始める。
一人づつボールを持たせて、順番にシュートをさせる。
ゴール前にはキーパーが立って、甘い球は弾き返している。
例年ならほとんどの新入部員は球を弾かれるのだが、今年の部員は違った。
半数以上の部員がゴールを決めている。
中でも伊藤という部員は一度も弾かれずにゴールしつづけた。

「次はパスとシュートの練習だ」
顧問が声をかけ、雄一らがすかさずゴール近くに走った。
そこから新入部員に向かってボールを蹴り、シュートをさせる。
ボールを蹴るのは雄一ら2年生の役目だ。
雄一の番が来て、新入部員らにボールを蹴る。
何人かはタイミングが合わずにシュートできなくなる。
雄一はボールを蹴りながら、ブラスバンド部のことを考えていた。

吹奏楽部に入るという考えは、雄一の頭からは無くなっていた。
ブラスバンド部のこともあるが、高橋があれだけこき下ろした吹奏楽部に今更入る気は無かった。
そういえば、高橋は吹奏楽部でどのパートだったのだろうか。
部室で会った時は楽器を持っていなかった。

「すいません、ボール蹴ってください」
新入部員の声で、雄一は我に帰った。
ぼんやりしていてボールを蹴るのを忘れていた。
「ごめん、今蹴る」
雄一が慌ててボールを蹴ると、ボールは強い勢いでグラウンドの果てへ飛んでいった。

「おい小島、何やってんだ!」
顧問の檄が飛んだ。
新入部員の顔を見ると、伊藤だった。
伊藤は腰に手を当てて雄一の方を見ている。
その態度は何となく自分を笑っているように見える。
雄一は自分の頭に血が昇っていくのを感じた。
こんなクラブいてられるか、という気がした。

夕食を済ませて、雄一は自分の部屋に戻った。
部屋の片隅にはギターが立てかけてある。
雄一はギターを手に取り、両手で持ってみた。
何となく弦をかき鳴らしてみると、でたらめな音がした。
まだ始めて2年目だ。
少しづつましにはなっているが、冷静に考えれば人に聞かせられるようなものじゃない。
吹奏楽部の部員たちの前でギターを披露するという考えはかなり甘かった。

雄一はベッドの上の教則本を開いた。
本を見ながら慎重に弦を押さえ、右手で鳴らしてみる。
全てがこんな調子だから、なかなか上達しない。
30分もやると飽きてしまう。
ギターをそのまま壁に立てかける。
本当はケースに入れた方がいいのだが、面倒くさくてしていない。

雄一はベッドに横たわって、英語の授業のことを思い出した。
特に英語の教師を嫌いなわけじゃなかったが、高橋が言った時はやはり気持ちよかった。
高橋は意外と大物かもしれないな、と思った。

翌日、理科の授業は移動教室だった。
旧校舎の廊下を歩いていると始業式の日のことを思い出す。
部屋は吹奏楽部の部室の隣にある理科実験室だった。
ホコリだらけだった部屋はいつのまにか片付いている。

「全員、好きな席について」
理科の老教師は教壇の上から声をかけた。
特に親しい友人もいない雄一は、サッカー部から少し離れて座った。
「小島、こっち来いよ」
サッカー部の連中が声をかけてきたが、聞こえないふりをした。

面白くもない教科書を広げて読んでみる。
「よっこいしょっと」
雄一の隣に誰かが腰を下ろした。
「宮田か」
「ここいいよな」
「……いいけど」

最後に教室に入ってきたのは女子の一団だった。
その中に松浦もいる。

「あー、もう座るとこないじゃん」
「あ、あそこ空いてるよ」
松浦は雄一たちの机に近付いてきた。
「ここ、いいよね?」
「全然いいよ。座って」
雄一は機嫌よく即答した。
「ありがと」
松浦は机を挟んで雄一の向かいの席についた。
その隣には友人らしい女子が座る。

全員が席についたのを見て、教師はよろよろと立ちあがった。
「それじゃあ一年間、この席順でいくからちゃんと覚えておくように」
雄一はこっそり拳を握り締めて喜んでいた。

理科の教師は老眼のうえ耳が遠く、多少生徒が騒いでいても気付かない。
教師が壇上で話を始めると、宮田は小声で雄一に話しかけた。
「小島、ちょっと話あるんだけど」
「またブラスバンド部の話か?」
「そうなんだよ。
楽器やってるやつには大体断られちゃってさあ。
 あとは小島だけなんだよ」
雄一は返事をしなかった。

「ダメ?」
「……もうちょっと考えさせてくれ」
宮田の視線をかわしながら答える。
「あのー、部外者の俺が言うのもなんだけど」
宮田は珍しくシリアスな雰囲気だった。
「小島、サッカーやりたいのか?

「どういうことだよ」
「なんかサッカー部のやつらとも席遠いし。
 自己紹介の時もサッカー部のこと言わなかったじゃん?
 だから本当にサッカーやりたいのかなあって」
「ブラスバンド部に引きこみたいだけだろ、お前は」
「それもあるけど、なんかサッカー部で楽しんでるように見えないんだよ」
「何が分かるんだよ、お前に」
少し大きな声を出してしまった。
松浦が怪訝そうに雄一の方を振り向いた。

「……また後で話そう」
雄一はまだ話し足りない様子の宮田にそう言った。

その日の部活も新入生中心だった。
二人でパス回しの練習を行う時、雄一は伊藤と組むことになった。
伊藤のパスは正確で、1年生とは思えないくらいだった。
距離を遠くしてロングパスの練習を始める。
相変わらず伊藤は確実にパスを飛ばすが、雄一の方がぶれてきた。
正確に飛ぶのは3本に1本くらいで、後は何メートルかずれる。
最後にはかなり外れた方向に飛んでいった。
普段ならこんなミスはしないのだが、熱意がないためか集中できなかった。

「ごめんごめん」
練習の後、雄一は伊藤に声をかけた。
「別に構わないですよ」
伊藤は表情を変えずに答えた。

下校途中、雄一の前では新入部員たちが歩いていた。
その中心では伊藤が話をしている。
「ここの高校も大したことないよな」
後ろに誰もいないと思っているのか、伊藤はそんなことを口にした。
雄一はそれを聞いて、すぐさま横をすり抜けた。
ひどく気分が悪かった。

風呂上り、雄一はケータイを開いた。
もう決意はできている。
雄一はアドレス帳から宮田の番号にかけた。

「もしもし」
「小島だけど」
「あ、小島? どうかした?」
「俺、ブラスバンドやるよ」
「え?」
「一緒に作ろう、ブラスバンド部」
「……いいんだな?」
「いろいろ考えたんだ。
少なくとも俺は今、サッカー部にいたくないんだ。
 ギターもやりたいし」

「……吹奏楽部に入ることは考えなかったのか?」
「吹奏楽部に入るより、新しいクラブを作りたいんだ」
「サッカー部は? やめたのか?」
「明日、退部する」
しばらく沈黙があった。
「じゃあ早速明日、学校にギター持ってきてくれ。
 どのくらいできるのか知りたいからな」
「分かった」
「とにかく、明日話そう。ブラスバンド部はそれから作ればいい」
「そうだな」
「じゃあな」

ケータイを切って、雄一はギターを引き寄せた。
下手くそでも構わない。
それはこれから上手くなっていけばいい話だ。
雄一は何も考えずにギターを鳴らしてみた。

「どういうことだ」
退部届けを突き出すと、顧問はそう言った。
「退部したいんです」
「なんでだ」
「他にやりたいことがあるんです」
「何だよ、やりたいことって」
雄一は少し迷ってから口にした。

「楽器です」
「楽器?」
「はい。ギターをやりたいんです」
「サッカーやりながらでもできるだろう」
「……ギターに専念するって決めたんです」
「そうか」
顧問は椅子から立ちあがって、大きく伸びをした。
「もったいないなあ。
 お前は小学校からサッカーやってるんだろ?」
「はい」
「なんでこんな中途半端な時期にやめるかなあ」
顧問は机のうえを整理しながら話す。
雄一とは目を合わそうとしない。
「あと半年待てば3年生は引退して、お前らが最高学年になるんだぞ。
 小島ならレギュラー確実なのにな」
「サッカーはしばらくいいです」
「分かった」
顧問は退部届けを引き出しの中にしまった。
「行っていいぞ」
「失礼します」
雄一は軽い足取りで職員室を出た。

休み時間に、珍しく高橋が声をかけてきた。
「久しぶりやね」
「そうだな」
今、高橋の顔は英語の時間のように険しくはない。

「サッカー部やめたん?」
「今日、やめた」
「あ、そう」
素っ気無い返事が返ってくる。
「吹奏楽部入るん?」
「いいや。宮田とブラスバンド部作るんだ」
「マジで?」
高橋は口をとがらせた。
「ちょっと聞きたいことあったんだけど」
「なに?」
「高橋って吹奏楽で楽器なにやってた?」
「ええやん、なんでも」
「気になるんだよ、なんか」

「……フルート」
「普通だな」
「普通でええんよ」
高橋は不機嫌そうに振り返って、どこかに行ってしまった。

その日の放課後、サッカー部の連中が雄一に声をかけた。
「小島、クラブ行こう」
雄一はゆっくりと振り向いて、口を閉ざした。
「どうしたんだよ」
「ごめん、今日から部活にはいけないんだ」
「なんでだよ」
雄一は皆が怒り出すと思ったが、心配そうな顔をしている。
「なんかあったのか?」
「クラブやめたんだ」

「は?」
「他にやりたいことがあるんだよ」
連中は皆、呆然としていた。
「なんだよ、やりたいことって」
「ギター」
「ギターなんかいつでもできるじゃん」
「なんでサッカーやめたんだよ」
雄一は固く口を結んだ。

黙っている雄一を見て、一人が尋ねた。
「じゃあサッカーはもうやりたくないってことか?」
「……そうだよ」
雄一が答えてからしばらくして、連中は黙って教室を出た。
「気にするなって」
宮田が雄一の肩を叩いた。

宮田に連れられるまま、雄一は廊下を歩いていた。
宮田はエレキギターを背負っている。
機材などは背負っているリュックサックに入っているらしい。
当然、雄一もアコースティックギターを肩にかけている。
「どこ行くんだ?」
「旧校舎の屋上。あそこだったら人いないし、ちょっと騒いでも大丈夫だ」
「立ち入り禁止だぞ、あそこ。見つかったらやばいぞ」
「平気だって。誰も来ないんだから。
 そういえば」
宮田は急に立ち止まった。

「実はさあ、もう一人部員が入りそうなんだよね」
「マジで?」
「うん。マジで。
 屋上で待ってるように言っといたから、多分もういると思う」
「なにできんの、楽器」
「ピアノ」

「ピアノ?」
どんどんブラスバンドからは遠ざかっている気がしたが、あえて口にしなかった。
アコースティックがいること自体、相当おかしいのだから。

屋上はだだっ広く、見渡す限り青空だった。
人影はどこにもない。
「まだ来てないのかぁ」
宮田はコンクリートの床に腰を下ろした。
「そいつって、何組?」
「1年A組」
「1年なのか?」
「そうだよ。あ、来た来た」
入り口の方に女子の姿が見える。
「え? 女子?」
雄一が驚く間もなく、その女子はすぐ側までやってきた。

「1年A組の紺野あさ美ちゃん」
「初めまして。紺野って言います」
「あ、どうも……」
雄一はしどろもどろで答える。
「まあ、とりあえず座って」
紺野は宮田の横に正座した。

「足は崩していいから」
宮田がそう言うまで、紺野はずっと正座していた。

髪は肩より長めに伸ばしている。
大人しそうではあるが気をつかうタイプらしい。
雄一と宮田が黙っていると、紺野が口を開いた。
「宮田さんから小島さんのことは聞きました。
 わりと物静かで暗いって……」
雄一は反論しようとしたが、当たっているだけに言い返せない。
「まあ、暗いっていうのは冗談だよ、冗談」
宮田はすぐさまフォローする。

「紺野ちゃんは楽器屋の娘なんだよね」
「はい」
「俺がエレキ買ったのも紺野ちゃんの店なんだよ」
「そうなんだ」
雄一は静かに相槌を打ったが、紺野にはそれが不機嫌に見えたらしい。
話のネタを探しているらしかった。

「あの、小島さんはどのくらいギターをやってるんですか?」
「まだ1年半ぐらい」
「そうなんですか、へぇー……」
紺野はしきりにうなずく。
「あの、紺野さん」
「はい」
「あんまり無理しなくていいから」
雄一がそう言うと、紺野は口を閉じたまま何も言わなくなった。

また沈黙が訪れた。
「紺野さんはどのくらいピアノやってんの?」
今度は雄一が沈黙に我慢できなくなり、口を開いた。
「……9年ですね」
「9年ってことは小学……」
「1年生から始めました」
「吹奏楽部とかには入ろうと思わなかったの?」
「あそこ、ピアノはとらないらしいんですよ。
 私はピアノ以外やる気ないんで、入部してません」
見かけによらず意思が強いな、と思う。

「じゃあクラブやってなかったの?」
「中学の時は陸上やってました」
外見からは運動ができそうなタイプには見えない。
「高校は?」
「高校もやってたんですけど、成績下がっちゃって親にやめさせられました」
「どのくらいなの、成績」
そう訊いてから、雄一はまずい、と思った。
クラブをやめさせられるくらいなのだから、相当悪いに違いない。
「大体、10番ぐらいです」
取り越し苦労だった。

「じゃあブラスバンド部に入ることは親には内緒?」
「内緒じゃないですよ。
うちの親、音楽だったらいくらやっても叱らないんです」
「変わってるねえ」
そう言ったのは宮田だった。
「俺なんかエレキやるって言った時はおかんに猛反対されたけどな。
 エレキギターなんてうるさいだけじゃない! って」

雄一は比較的、親には賛成された方だった。
サッカーとゲームしかやってなかったから、そういう趣味を持たせたかったのかもしれない。
ギターは親戚からもらった物だから、お金もかかっていない。

「じゃあそろそろ、小島にギターの腕を見せてもらおうかな」
「え、今?」
「そりゃそうだろ。
 なんでもいいから弾いてくれよ」
「私も聞きたいです」
紺野も身を乗り出してくる。
しかたなく雄一はギターを取り出した。
「俺、自信あるの『きらきら星』しかないんだけど」
「なんでもいいって。とりあえず弾いてみ」

宮田の催促に負けて、雄一は『きらきら星』を弾いた。
短いし、指の動きも簡単だから何てことはない。
しかし宮田は物珍しさのせいか、素直に驚いた。
「結構、弾けるやんか」
ただ、紺野は難しい顔をしていた。
たったこれだけか、という感想を持っているのかもしれない。
そんな表情を浮かべている。

「あと、『Let it be』のサビのところも弾ける」
これはちょっと不安だったが、難なくできた。
紺野はまだ難しい顔をしている。
「おお、すごいすごい」
宮田は機嫌よく手まで叩いている。
「あと、スピッツの『ロビンソン』も弾ける」
雄一はそんな調子で次々に弾いていったが、紺野は固い表情のままだった。
大した運動もしていないのに、雄一の背中は汗でびっしょりだった。

思いきって尋ねてみる。
「どう、紺野さん」
紺野は固い表情を解いた。
「……なんか、思ってたより弾けるからビックリしました」
どうやらビックリすると難しい顔をするらしい。
――よく分からんなあ。
雄一はそう思いながら、ギターをケースにしまった。

その後、3人は駅前のスターバックスに場所を移した。
ギターを弾いた以上、屋上で地べたに座りこむ必要はない。
「部室、どうする」
「それだよなあ」
宮田は腕組みをした。
「顧問とかはいなくても平気なんだけどな。
 むしろいない方がやりやすいし」
「まだ届出もしてないんだろ?」
雄一はコーヒーをかき回しながら尋ねる。
「それもある」

「3人だけで部なんか作れるんですか?」
「そういえばお前、前に『2人でもなんとかなる』って言ってたけどマジ?」
宮田はしばらくうつむいてコーヒーをすすっていたが、耐えかねたように顔を上げた。
「ごめん、嘘」
「やっぱりな」
雄一は深くため息をついた。

「……私、あてあるんですけど」
「え? マジで?」
紺野の声に、それまでぐったりしていた宮田が飛び起きた。

「同じクラスの子なんですけど……」
「どんな子?」
「辻希美って名前です。
 前、話した時にドラムやりたいって言ってたんですけど……」
「ドラムか。
 いいねえ、ブラスバンドっぽくて」
雄一と紺野のことは丸きり無視した発言だったが、2人とも何も言わなかった。

「その辻って子はクラブやってるの?」
「やってないみたいですよ。
 中学の頃はバレー部だったらしいですけど」
「バレー部ないもんなあ、うちの高校」
雄一らの高校には、珍しくバレー部が存在しない。
「だから今は何も入ってないみたいです」

「小島はあてとかないの?」
「そうだな……」
雄一は曖昧な返事をしてコーヒーをすすった。
「それじゃ、今日はもう解散するか」
宮田の声を合図に、3人とも席を立ち上がった。

休み時間に宮田と話していると、サッカー部の連中が何人か寄ってきた。
「小島、そいつとブラスバンド部作るんだってな」
「……そうだよ。
 誰から聞いた?」
「昨日お前らが話してるのが聞こえたんだよ」
「聞いてたのか?」
「聞こえただけだ。
 お前はそのためにサッカー部やめたのか?」
「いいだろ」

「……宮田」
突然、話を振られた宮田はどぎまぎしながら答える。
「ん? なに?」
「どうせ、お前が小島をむりやり引きこんだんだろ」
「なに言ってんだよ、お前ら」
雄一が口を挟んだが、相手にされなかった。
「そんなわけないだろ」
「でもお前、誰に誘っても断られるからやけになったんじゃないか?
 ほとんどいないんだろ、部員」
「部員はいないけど、入りたいって言ったのは小島だ」
「……だったらいいけど」
吐き捨てるようにそう言って、連中は教室を出て行った。
「変な奴ら」

その日も3人は屋上に集まった。
「今日はどうする?」
「どうしよっか。
 小島のギターは昨日聞いたしな」
宮田は寝転がって力なく答えた。

全身脱力の宮田を無視して、雄一は紺野に尋ねた。
「紺野さん、なんかすることある?」
「どうしましょうか……」
「昨日言ってた辻さんはどうだったの?」
「言ってみたんですけど、考えとくって言われました」
「じゃあ、今からその辻さんのところに行ってみる?」
宮田が突然起きあがった。

「どうやって」
「紺野さん、辻さんの番号知ってる?」
「知ってますよ」
「じゃあ辻さんにかけて、暇っぽかったら会いに行けばいいんだよ。
 メールでもいいけど」

「でもそんなに仲良くないんですよ、辻ちゃんとは」
「そこを何とかならないかなあ」
「……じゃあ、やってみましょうか?」
「さすが紺野ちゃん、話が分かる」
紺野はケータイを取り出しておもむろに電話をかけた。

「……あ、もしもし?
 ごめんね、いきなりかけちゃって。
 うん。今、暇?
 あ、まだ学校なんだ。
 うん。え、いいの?
 ちょっと、ブラスバンド部の話があるんだけど。
 先輩とかも一緒だけどいい?
 あ、そう?
 だったらこっちから行くね。
 じゃあまた後で」

紺野はケータイを切って、笑顔を浮かべた。
「オッケーでした。
 まだ学校にいるみたいです」
「どこにいるの?」
「日直で教室にいるみたいです。
 まだ仕事が終わらないから来て欲しいって」
「でかした、紺野ちゃん」
宮田は埃を払いながらすっくと立ち上がった。

1年A組の教室では、辻が一人で日誌を書いているところだった。
後ろ姿はちょっと小柄で、髪は後ろで一つにまとめてある。
「辻ちゃん」
「ああ、紺野ちゃん」
辻は日誌を閉じて振り向いた。

「そっちの人達はブラスバンドの人?」
「そうそう」
「どうも、初めまして。辻希美です」
辻は頭を下げる。
「いや、こちらこそどうも。小島です」
「宮田です」

宮田は雄一の腕をつつきながらつぶやいた。
「意外と礼儀正しいな」

紺野は頃合いを見計らって話を切り出した。
「ちょっと話あるんだけどね」
「ブラスバンド部のことだよねぇ」
「そう」
「できればもうちょっと待ってほしいんだけど」
「どのくらい待てばいいかな」
口を挟んだのは宮田だった。
「せかすようで悪いんだけど、できるだけ早い方がいいんだ。
 今年の文化祭で発表したいから」
まくしたてる宮田に、辻は黙っていた。
「ちょっと引いてるんじゃないか?」
雄一がそう言うと、宮田は口をつぐんだ。
「……私、バレーやってるんですよぉ」
「紺野ちゃんから聞いたよ。
 中学の頃はやってたんだって?」

「今もやってるんです。
 地元に小学生のチームあるんですけどぉ、そこでコーチやってるんです」
「忙しいんだ」
「そうなんですよぉ。
ドラムには興味あるんですけど、時間がなくてぇ。
 難しいって聞いてるんで、やっぱり時間ないと……」
「大丈夫だよ、全然。
 文化祭までは時間あるし、ちょっとづつでもやっていけば」

辻はまた口を閉じた。
「考えさせてください」
「……そう。
決心ついたらいつでも声かけて。準備はできてるから」

「それじゃ、鍵閉めるんで」
辻は宮田の横をすり抜けて教室を出た。
「宮田、教室出よう」
釈然としていない宮田の肩を叩いて、雄一は辻の後に続いた。

結局、その日はそれでお開きになった。
猛プッシュしたにも関わらず辻にかわされたせいで宮田は肩を落としている。

「大丈夫ですよ。
 辻ちゃん、考えてくれてるみたいですから」
「だったらいいけど」
宮田はまだ浮かない顔をしている。
「でも辻ちゃんが入っても4人なんだよな」
「4人でもなんとかできるんじゃない?
 うちの生徒会っていいかげんだし」
「でもクラブを作るんだったら先生の許可もいりますよね」

「面倒だな……
 紺野さん、あと一人くらいいないかな」
「私はちょっと分からないです。
 楽器やってる人はほとんど吹奏楽に行っちゃいましたから」
「普通はそうだよな」
3人とも浮かない表情のまま別れた。

翌日は土曜日だった。
予定のない雄一は、家でだらだら過ごすことにした。
昼食のチャーハンを食べていると、母親が話しかけてきた。

「午後からお客さん来るから、出てってほしいんだけど」
「お客さんって?」
「お母さんの友達」
母親の友達が来ると、ごろごろしている暇などなくなってしまう。
「分かった」

雄一は昼食を終えて、そそくさと家を出た。
特にあてはない。
駅前をうろついて、時間があれば映画でも見るかもしれない。
今月はまだ小遣いに余裕がある。
本屋で雑誌を立ち読みして、古着屋を冷やかす。
いつもの巡回コースの通りまわって、CDショップに入る。

――今日は金あるから、CDでも買おうかな。
邦楽コーナーを一瞥してから、楽器演奏のコーナーに入る。
店の中でも人気のないそのコーナーには、あまり人はいない。
しかし今日は、先客がコーナーの一角に立っていた。
若い女性だが、雄一は気にも留めずに品定めを始める。
ふとした拍子に女性客の横顔を見ると、松浦だった。

「……あの、松浦さん?」
振り向いた顔は、確かに松浦だった。

「小島くん?」
「そうそう、小島」
雄一は松浦が名前を覚えているだけで有頂天だった。
「この近所に住んでる?」
「うん。宮田くんもなんだ」

「ここ、来たことある?」
「たまにね。古いCDも置いてあるから、結構好きなんだ」
松浦は手にクラシックのCDを持っている。
「クラシック聞くんだ」
「まあね。バイオリンやってるから」
「バイオリン?」
「うん。
 中2から始めたんだ。近所にスクールができたから」
「へえ……」
ブラスバンドのことが頭をよぎったが、今はとても言い出せない。

「小島くんは何聞くの?」
「歌詞の入ってない曲なら、何でも好き」
「オペラとかでも?」
「全然聞くよ」
ちょっと嘘をついた。
さすがにオペラはあまり聞いたことがない。

「なんか、知的っぽいね」
「そんなことないって。
 松浦さんもクラシック聞いてるじゃん」
内心、雄一は嬉しくてたまらなかった。
松浦から知的と言われて悪い気はしない。

「……今、暇?」
「うん。なんで?」
「俺も暇だから、よかったら一緒にどっか行かない?」
言った途端に雄一の胸は不安で一杯になった。

断られたらどうしよう。
ましてや断られたうえ、皆にこのことをばらされたらどうしよう。
女子は全員、白い目で俺のことを見るに違いない……
「いいよ」
松浦はあっけらかんとした調子で答えた。
「どこ行く? スタバでも行こっか?」
実に、雄一の不安など気付いていない様子だった。

「どこ行こうか」
松浦と並んで店を出る。
「映画とか……どうかな」
「映画?」
「俺、見に行こうと思ってたから」
「でも、あんまりお金持ってないんだけど」
「いいよ、俺が出すから」
「でも悪いし……」
「大丈夫だって。今は金あるから」
「じゃあ、電車賃は私が出すから映画はおごってもらうね」
「そうしようか」

数駅だけ電車に乗って、小さな映画館に入る。
雄一は恋愛もののチケットを買った。
「これ、CMでよくやってるよね」
松浦はタイトルを聞いてそう言った。
土曜日の割に館内は空いていて、二人は中ほどの席についた。

映画の内容はありがちで、大したものじゃなかった。
しかし隣に松浦が座っていることで、雄一は全てが楽しかった。
「面白かったね」
「まあ、そこそこ」
「そうかな。結構、面白かったけど」
そう言われると、雄一としては「面白くなかった」とは言えない。
「そうだね、うん。なかなかだったね」

帰りの電車を降りてもまだ時間があったから、駅前のスターバックスに入った。
「バイオリンやってるって言ってたけど」
雄一は気になっていたことを尋ねた。

「どのくらいできんの?」
「そんなに上手くないよ。
 一応、音は出せるけどね」
「音出すのも難しいらしいね」
「そうそう。
 私も音出せるようになるまで苦労したんだ」

「ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「なに?」
松浦はテーブルの上にコップを置いた。

「今、俺新しいクラブ作ろうと思ってるんだ」
「へえ。どんなの?」
「ブラスバンド部っていうんだけど」
「かっこいいじゃん」
「うちのクラスの宮田って知ってる?」
「知ってるよ」
「あいつがエレキできるんだ。
 それで、俺らの他に一年生の女の子がいるんだけど、まだ3人なんだ」
「部員探してるんだ」

「うん。それで、松浦さんにも参加して欲しいんだ」
「え?」
松浦の座っている椅子がガタッと音を立てた。

「私、バイオリンしかできないけど」
「バイオリンでいいんだよ。俺もアコギしかできないから。
 もう一人の子なんか、ピアノやってるんだよ」
「……それって、ブラスバンドじゃないんじゃないの?」
松浦は怪訝な顔をする。
「しょうがないよ、人数が集まらないんだから」

「でも私、どっちにしろ無理だわ。
 テニス部はやめられないし」
「無理か、やっぱり……」
雄一が肩を落とすと、松浦は取り成すように言った。
「でも、高橋さんっているじゃん?
高橋さん、帰宅部だけど前は吹奏楽って言ってたよ。
 今度聞いてみたら?」
「……そうする」
そんなことは知っているが、松浦の助言をむげにはできなかった。

それからしばらく雑談を交わした後で、松浦が言い出した。
「小島くん、彼女いるの?」
「いないよ」
「そうなの? サッカー部だったし、結構もてるんじゃないの?
 前まではいたでしょ」
「一応ね」

中学の時に半年だけ付き合ったことがある。
告白されて、断る理由もないから付き合いはじめた。
ただ、高校受験が近付くにつれて疎遠になり、自然消滅してしまった。

「松浦さんは?
 そっちこそもてるんじゃない?」
「今はいないよ、彼氏は」
「付き合った人数、当てようか。
 5人はいるでしょ」
「そんなにいるわけないじゃん。
 これでも一途な方なんだよ」
「そうかな。経験豊富そうに見えるけど」
「うわー、ひっどい。セクハラだ」
松浦はクスクスと笑った。

夜、風呂上りにメールが2通届いていた。
松浦と宮田からだ。
迷わず松浦からのメールを見る。

今日は久しぶりに映画見れたし、楽しかった。
また学校でね。

たったそれだけだったが、思わず雄一の頬は緩んだ。
しばらく余韻に浸った後、宮田からのメールを開く。

明日、ブラスバンドの活動。
午後1時に○○小学校にて集合。
楽器はいらない。

雄一の卒業した小学校の名前だった。
そこなら家から歩いて10分ほどだ。
そこで何をするというのか。
「まあ、いいか」
上機嫌の雄一は、ケータイを閉じてがらにもなく宿題など始めた。

久しぶりに訪れる小学校は、逆に新鮮だった。
たった5年前までは自分が小学生だったなんて考えもつかない。
正門ではすでに宮田が待っていた。
「紺野ちゃんは?」
「もうすぐ来るんじゃない」
宮田は門柱に寄りかかっている。

「なあ、今日は何するんだ?」
「バレーの見学」
「は?」
「ここの体育館でバレー教室やってるらしいんだ。
 毎週日曜日の昼間に」
どういう意味か、雄一には分かりかねた。
「小学生とか中学生が来てるらしいんだけど。
 そこの先生にはもう了解とってあるから」
「どういうことだ?」
「辻さんだよ」
宮田は重い腰を上げて、門柱から離れた。

「ここでバレー教えてるんだよ、辻さんは」
ようやく雄一にも事情が飲みこめた。
「わざわざここまで来て誘おうってことか?」
「そうだよ。紺野ちゃんにはもう言ってあるから」

「辻さん本人には?」
「言ってないよ。驚かそうと思ってな」
「驚かしてどうするんだよ」
「あ、紺野ちゃんだ」
宮田が手を振る先には、紺野が歩いている。
「それじゃ、行こうか」
宮田は先立って校舎に入っていった。

校舎は雄一が卒業したままの姿だった。
体育館も相変わらずの木造で立っている。
そして中からは、ボールが弾む音がしていた。
「本当にやってるみたいだな」
「当たり前だろ。連絡まで取ってるんだから」
宮田は得意げに言う。

「教えてるのは辻さんの他に、大学生と社会人が一人づつらしい」
「3人でやってるんだ」
「去年までは辻ちゃん中学生でしたから、2人だったんでしょうね」

ボールの音は近付くにつれて大きくなっていく。
合間に女の子たちの掛け声が聞こえる。
宮田が体育館の扉を開けた。

「すいません」
あいさつは館内の音でかき消された。
「すいません、ちょっといいですか」
宮田はそばに立っていた女性の肩を叩いた。
「昨日、連絡した宮田ですけど」
「はいはい。君たち3人ね、見学したいのは」

腕組みをする女性は、そばのパイプ椅子を顎で示した。
「あそこに座って見てて」
言われるまま、3人は椅子に腰を下ろす。

「小島さん」
座るなり、紺野は雄一を肘でつついた。
「なに?」
「今の人、口元にほくろありましたね」
「あったね」
「なんか私、妙に気になるんですよ。
 なんて名前なんですかね」

雄一は宮田の肩を叩いた。
「今の人、なんて名前?」
「確か保田さんって言ってたけど」
「紺野ちゃん、保田さんだって」
「あだ名はほくろさんで決まりですね」
「保田さんだってば」

辻はジャージ姿でネットの向こうにボールを投げていた。
並んでいる小学生は次々にアタックを決める。
「声出てないよ」
辻がそう言うと、小学生たちの間から掛け声が湧いた。

「結構すごいな」
バレーの練習を初めて見る雄一は少し興奮していた。
「熱気とかすごいよな」
「サッカーもあんなもんじゃないの?」
「なんか体育館でやってる分、熱気がこもってるって言うか」
「換気してないだけだろ」
宮田はしれっと言い返す。

隣のコートではゲームをやっていた。
中学生くらいの男女が別々にゲームをしている。
「足、動いてないよ」
時々コート脇に立っている、大学生らしき女性が檄を飛ばす。
選手は素直に答えながらゲームを続けている。

「はい、集合」
保田が頃合いを見て声をかけた。
小中学生が一斉に保田の元に集まる。
辻と大学生は小中学生の後ろに立っている。
まだ雄一たちには気付いていない様子だった。
「今日は、見学の人が3人来ています」
保田が手招きをする。
慌てて立ちあがり、3人は保田の横に並んだ。

「あっ」
ようやく気付いたらしい辻は声をあげた。
「辻、知り合い?」
「はい、一応……」
「じゃあ話が早いわね。
 左から紺野さん、小島くん、宮田くんです」
宮田が2人に声をかける。
「頭、下げろ」
言われてから急いで頭を下げた。

「3人とも高校生ということですが、取り合えず見学だけでもしてもらおうと思います」
辻は隣の大学生に何か尋ねられている。
雄一たちの方を見ながら、辻は答えている様子だ。
「見学の人もいることですから、皆さんいつも以上に頑張って下さい。
 それじゃ、解散」
小中学生は全速力でコートに走る。
辻も釈然としないようだったが、小学生のコートに戻った。

「吉澤、ボール3つ貸して」
保田が大学生に声をかけると、即座にバレーボールが飛んできた。
ぼーっと突っ立っている3人に向かって、保田はボールを渡した。
「せっかくなんで、今から練習のさわりをしてもらおうと思います」
「え?」
雄一が驚きの声をあげた。
「おい、見学だけじゃないのか」
「俺だってすると思わなかったよ」
宮田に耳打ちすると、そう答えた。

「3人とも体育の授業でバレーは?」
「やったことあります」
「俺もあります」
「俺も」
「じゃ、まずはアンダーが何回できるのか見せてもらいます。
 小島くんからどうぞ」
「あ、はい……」
雄一はボールを上げて下からトスを上げようとした。
「手はそうじゃないでしょう!」
手にボールが当たる前に、保田の怒声が飛んだ。

「あんなに厳しいとは思わなかったな」
パイプ椅子に腰掛けながら、宮田は愚痴を漏らした。
「見た感じ、そんなに厳しそうには見えないんだけどな」
「初心者にあれだけボロクソ言わなくてもいいよな」
雄一も同じ意見だった。
「そうですか? 爽快でしたよ、結構」
紺野はあまり汗もかかずに涼しい顔をしている。
「意外と体力あるね、紺野ちゃんって」
「中学まで陸上やってたおかげですよ」
紺野はにっと口元を開いた。

「今日はここまで」
「ありがとうございました!」
保田の号令と共に、小中学生は一斉に挨拶をして更衣室へ散って行った。

椅子に座ってその様子を眺めていた3人に、辻が歩み寄ってくる。
「なんですか、いきなり」
口調には不機嫌さが含まれていた。
「まあそう言わないでさ。話だけでも聞いてよ」
宮田は取りつくろうようだった。

しばらくして、辻は黙って床に座りこんだ。
「あ、俺の椅子座っていいよ」
宮田が譲ろうとしたが、辻は動かなかった。
「いいです。
 ブラバンの話ですか」
辻は断然、滑舌がよくなっている。
教室ではまだ舌足らずな喋り方だったのに、ここでは別人のような振るまいだった。

「そうそう。ちょっとは考えてくれたかな」
「まだ決めてません。もうちょっと時間もらえますか」
二日前と同じ返事が返ってきた。
雄一も紺野も、そうなることは薄々感じていた。
わざわざここまで来ても、結果は同じなのだ。
しばらく4人の間で沈黙が続いた。

「ののー、なに話してんの?」
さっきバレーを教えていた女子大生が、辻の後ろに立った。
「なんでもないよ、別に」
辻はため口で答えた。
「冷たいなー。
 いいじゃん、話してよ」

女子大生は勝手に辻の横に腰を下ろした。
「私、ここでバレー教えてる吉澤。
 一応、大学生。
 皆、学校の友達?」
「はい、まあちょっと……」

「あ、分かった」
紺野が返答に詰まっていると、吉澤は手を叩いた。
「あれでしょ、ブラスバンドの人たちだ」
「よっしー」
辻が止めるのも無視して、吉澤は話し続ける。
「今朝言ってたもんね、ブラスバンド部に誘われてるって」
「そんなこと言ってたんですか、辻さんが」
宮田が体を乗り出した。
「うん。やけに熱心に誘ってくるからどうしよっかなー、って……」
「やめてよ、もう」
辻は大声を出して遮った。

「自分で決めるから、よっしーは黙っててよ」
「いいじゃんか、ドラムやれば。
 カッケーじゃん」
「そうですよね。カッケーですよね」
宮田は吉澤に合わせて相槌を打つ。
「前にも言ってたじゃん、サッカー部がどうとか……」
「いいかげんにしてよ」
辻は立ちあがって叫んだ。

「返事は今度しますから」
そう言い残して、辻は体育館を出て行った。
「あららららら……やっちゃったかな?」
言葉の割に、吉澤は悪びれる様子もない。

「なんですか、サッカー部って」
雄一が尋ねると、吉澤は顔の前で手を振った。
「なんでもないよ。
 っていうかこれ言っちゃうとののに一生口きいてもらえそうにないから」
よいしょっ、と掛け声を出して吉澤は立ちあがった。
「じゃ、またね。
 バレーに興味持ったら水曜か日曜に来てちょーだい」
吉澤はくるっと背中を向けて体育館を出て行った。

3人で黙りこくっていると、保田が近付いてきた。
「話、終わった?」
「ああ、はい……」
「それじゃ悪いけど、体育館出てくれない?
 そろそろ閉めるから」
いつのまにか保田は私服になっていた。
3人はばらばらに立ちあがる。

体育館の扉を閉めながら、保田は話しかけてきた。
「まああの子も今、微妙なところだから。
 諦めずに勧めてあげて」
雄一には『微妙なところ』という言葉が引っかかったが、聞きかえしはしなかった。
「またいつでも来て。
 今度来る時は体操服持参でね」
そう言って、保田はバイクで走り去った。
「あの練習はもういいよな」
宮田の言葉に、雄一は静かに頷いた。

宮田は自販機でコーラを買って一息ついた。
「なんだろうな、吉澤さんが言ってたサッカー部って。
 小島、元サッカー部なのに心当たりとかないのか?」
「そんなこと言われても知らねえよ。
 紺野ちゃんなんか知ってる?」
紺野もジュースの缶を片手に返答した。
「ちょっと分からないですね」
「だよね……。
 本当に何にも分からないのか、小島」
「知らないって」
「何でもいいんだよ。1年にカッコイイ部員がいるとか」
「ああ……」

言われて、雄一は伊藤のことを思い出した。
>>125,>>126,>>139参照)
「もてそうな奴ならいるな」
「……もしかして、それって伊藤くんじゃないですか?」
「知ってるの、紺野ちゃん」
「はい。同じクラスです」

「きっとそれだ」
宮田が叫んだ。
「なんだ?」
「辻さんは伊藤が好きなんだよ、多分。
 それで伊藤がなんか言ったんだよ、ドラムが似合うとか。
 だからドラムやってみる気になって……」
「考えすぎですよ」
紺野は即座に否定した。
「そうかなあ。意外といい線いってるんじゃない?」

「だって、噂では伊藤くんは彼女がいるらしいですよ。
 辻ちゃんだってそのこと知ってるでしょ」
「彼女のいるやつのためにそこまでしないよな」
雄一も紺野に同調した。
「違うかな」
宮田は首を傾げた。

「なんか、宮田焦ってない?」
「別に……そんなことないけど」
宮田は空き缶をゴミ箱に向かって投げた。
缶はゴミ箱の縁に当たって、宮田の足元にまた転がってきた。
「でも、わざわざここまで押しかけることなかったと思うな」
「いや、焦ってはないよ……」
宮田は曖昧な態度で答える。
足元の空き缶を拾って、もう一度投げた。
今度はゴミ箱の中に缶が吸い込まれた。

「そういえば、辻さんはなんでうちの高校に来たのかな」
宮田は話題をすりかえたいようだった。
「どういうことだ?」
「人に教えるほどバレーが上手いんだったら、普通は高校でも続けるだろ。
 なのにバレー部のないうちの高校に来るなんておかしくない?」
「私も知らないです」

「飽きたんじゃない?」
雄一はぽつりと言った。
「え?」
「バレーに飽きたんだよ、きっと。
 俺にはその気持ち分かるな」
宮田と紺野は何も言わなかった。
雄一は2人の顔を見るともなく見ながらため息をついた。

翌日、雄一は教室で密かに優越感に浸っていた。
松浦とはデート『らしきもの』をした仲なのだという自信を、雄一は持っていた。
授業中も、思わず目は松浦の方へ向いてしまう。
昼休みにも雄一はぼんやりと松浦を眺めていた。
本当は皆の前でデートのことをこれ見よがしに話したかったが、それははばかられた。
たまたま松浦の目線が雄一の方を向いた。
目が合って、雄一には松浦が微笑んだように見えた。

「なにボーっと見てるんだよ、バカ」
声をかけられて、雄一はようやく宮田に気付いた。
「お前、松浦のこと好きなんだろ」
「え?」
「バレバレだぞ。男子の半分以上は知ってるんじゃないか」
「そんなつもりじゃ……」
「あんなトローンとした目で見てれば誰だって分かるぞ」
雄一は返事に詰まった。

相談した結果、今日は辻のところへは行かないことにした。
「昨日押しかけたばっかりだし、今日までやるとさすがにやりすぎだろ」
「もうすでにやりすぎだと思うけどな」
雄一には耳を貸さず、宮田はリュックサックを背負った。

「今日こそ俺のエレキを聞かせてやるからな」
宮田は下足箱とは逆の方向に歩き出した。
「おい、どこ行くんだよ」
「屋上」
「なにしに?」
「だからエレキ聞かせてやるって言ってるだろ」
「屋上に電気あるのか?」
階段を上りながら、二人は会話を続けた。

「屋上の隅っこに小屋があるだろ。
 あそこ、一応部室らしいんだ、天文部の。
 そこには電気があるだろ」
「無断で使っていいのか」
「うちでは天文部なんてあってないようなもんだろ」
「鍵は?」
「職員室から持ってきた。
 教師も天文部のことなんか気にしてないから、堂々とパクってこれたよ」
雄一は宮田の行動力に少し呆然としながら後についた。

部室の前では紺野が待っていた。
宮田はポケットから鍵を取り出し、ノブに突っ込む。
錆付いた蝶番はいびつな音を立てて開いた。

「ほこりくせえ」
宮田はそう言いながら上がりこんだ。
「窓開けましょうよ」
紺野が片端から窓を開け始める。

雄一は床のほこりを払って腰を下ろした。
ふと見ると、壁にコンセントがついている。
「宮田、ここにコンセントあるぞ」
「おお、ほんとだ」
宮田はリュックの中から器具を取りだし、ギターを袋から出した。
ピカピカに光る赤いエレキだった。

「よし、つなぐぞ」
宮田は準備を終えて、エレキを弾く構えになった――

雄一はまだ耳鳴りが続いていた。
助けを求めるように部室を出る。
外の空気は爽やかで、生き返ったようだった。
紺野も続いて部屋を出てきた。

「凄かったですね」
「……あんなに凄いと思わなかった」
二人は耳を押さえて、屋上からの空を眺めた。
「鼓膜破れたかと思った」

二人の感想を知らない宮田が、部室から出てきた。
「凄かったっしょ? 俺のエレキ」
「……次からはもうちょっと音下げろよ」
「あの大音量がいいんじゃんか」
「お前、いっつもあんなので演奏してるのか?」
「まあな。家ではもうちょっと小さいけど」
「ちょっと間違えば騒音だぞ」
すでに騒音だと思ってはいたが、そこまで言っては可哀想かとも思った。
「小島は音楽がわかってないんだよ……」
宮田はぶつくさとそんなことを言いはじめた。

「喉かわかない?」
「じゃあなんか買ってきてやるよ」
雄一は気分転換に購買部まで足を運ぶことにした。
「俺、しゃきりりな」
「私は午後ティーでお願いします」
「はいはい」
二人の希望を聞き終わる前に、雄一は屋上を出た。
階段を降りて購買部へ向かう。

旧校舎の屋上からは大分長い距離を歩くため、気分転換にはなる。
グラウンドから各クラブの掛け声が聞こえてきた。
野球部の掛け声やテニス部の声などがする。
雄一は窓からサッカー部を探した。
サッカー部はグラウンドの真ん中で練習しているからすぐに見つかる。
今はまだアップの途中だった。
雄一は立ち止まって、練習風景を眺めた。
無意識のうちに、目は2年生の方に向く。
雄一の同級生がパスを回している。

「なにやってんの、小島」
いきなり声をかけられて、雄一は驚きながら振り向いた。
「なんだ、高橋か」
「なんだってなんよ」

高橋は取っ手のついた、角張った黒い箱を持っていた。
「なに、その箱」
雄一が尋ねると、高橋は箱を隠すように背中の後ろに回した。
「別に。なんでもないよ」
「ふーん……」

「あ、それよりもさ、さっき物凄い音しなかった?
 なんかバリバリバリって」
「……うん、したした」
「私、4階にいたんだけど凄いうるさかったんよ」
4階といえば、エレキを鳴らしていたすぐ下の階だ。
「あんまり気にしない方がいいよ」
「なんで?」
「いや、なんとなく」
自分もその騒音の仲間だとは言いたくなかった。

翌日、雄一は理科の授業を心待ちにしていた。
だが1時間目が始まっても松浦の姿が見えない。
4時間目の理科の授業になっても松浦は欠席のままだった。

たまらず雄一は松浦の隣の席に座る女子に尋ねた。
「なあ、松浦って今日なんで休んでんの?」
「知らない。でもなんか、昨日熱っぽいって言ってた」
「そうなんだ。ありがとう」
雄一はできるだけ興味のないふりをしながら答えた。

「熱なんだな、松浦」
宮田はさっきの話に耳を挟んでいたらしい。
「彼氏候補としては心配だよな」
「うるさいな」

「……それよりも辻さんのことだよ」
「今日、行くんだろ?」
「うん。でもまだ何言っていいかまとまってないんだよな」
「考えとけよ、そういうことは。
 宮田が『俺が言う』って言ったから任せたんだよ」
「分かってるよ。
 放課後までには考えとくから」
宮田は教師の話など耳に入らない様子で考えこんだ。

理科の授業が終わって、二人はそのまま食堂へ行くことにした。
結局、宮田は1時間ずっと考えこんでいた。
券売機の行列に並ぶ間も、しきりにうんうん唸っている。

雄一はその後ろで突っ立っていたが、目の端に気になるものが映った。
「おい、あれ辻さんじゃないか?」
雄一が指差す先には、食券を持ってうろうろする辻がいた。
「ほんとだ。
 小島、悪いけど俺のカレーライスの食券買っといてくれ」
宮田はそう言って行列から離れた。
さり気ない様子で辻に近付いて行く。
辻はしばらくして宮田の存在に気付いて振り向いた。
雄一からは二人の話し声は聞こえないから、何となく予想するしかない。

二人はしばらくなんでもない雑談をしているようだった。
そして券と引き換えに、辻はラーメンの丼を受け取る。
行列が消化されて、雄一の番になった。
急いでカレーライスの券を二枚買う。
人込みの多い食堂で見失わないよう、二人に駆け寄った。
「こんにちは、辻さん」
息切れする声で雄一は話し掛けた。
「小島、悪いけど俺のカレーライス取ってきてくれ。
 ここの席にいるから」

「え?」
「いいから、早く」
宮田の声に、雄一は渋々ご飯もののコーナーに並ぶ。
しばらくしてカレーライスを二つ受け取り、急いで二人の席に向かった。

二人は向き合って座っていた。
宮田の目の前にスプーンとカレーライスを置いて、自分もその横に腰を下ろす。
宮田と辻の雰囲気は悪くはないようだった。
「じゃ、小島も来たことだしそろそろブラバンの話をしたいんだけど」
「……はい。構いませんよ」
辻は箸を取り上げてラーメンをすすった。
「食べながら話しましょう。
 次の時間、体育なんで」
小島もスプーンを取ってカレーライスを食べ始めた。
宮田はスプーンに触ろうともしない。
「早速だけど、そろそろ決めて欲しいんだ。
 もう決まったと思うんだけど」

「その前に、ちょっといいですか。
 話しておきたいことがあるんですけど」
辻は宮田を制した。
宮田は黙って頷く。
「……私、ケガしてるんです。
 左足なんですけど」
辻の話は次のようなものだった。

5ヶ月前、つまり高校受験を控えた中学3年生の12月のことである。
部活はとっくに引退していたため、希美はその日もまっすぐ家に帰るつもりだった。
ところがアルバム委員の仕事で下校が遅れ、外に出るとすでに暗闇だった。
家の近い友達もおらず、希美は一人で家に帰ることになった。
日が暮れているから自動車やバイクには気をつける。
もちろん、交通量の多い交差点では気をつけて横断歩道を渡った。

歩道の半ばにさしかかった時、鼓膜の破れるような大音響がした。
金属と金属のこすれ合う、妙な高音が一面に響いた。
そして何かが猛スピードで希美の方に飛んできたのだ。
希美は反射的に右足を出して避けようとした。
しかし、突っ込んでくるバイクの車体は残された希美の左足に激突した。
その反動で希美の体は数メートル吹っ飛び、道路に仰向けに転がる。
トラックと衝突したバイクが希美の左足に当たったわけだ。
後に聞いた話だが、バイクの運転手は即死だったらしい。
薄れていく意識の中で、大勢の野次馬の声が聞こえた。

目を覚ますと、救急車の中だった。
診断では筋肉の断裂もなく、左足の骨にひびが入ったのと筋肉を強打しただけだった。
ただ、筋肉の傷みはただの打撲で済ませられないほどだった。

一ヶ月の入院生活の途中、希美は医師に尋ねた。
『バレーは続けられますか』
『残念だけど、最低でも一年は急激な運動はできない』
若い医師はうつむいて答えた。

希美には、最初に目的にしていた高校があった。
そこは家から近く校風も良かったが、バレー部がなかった。
『バレー部がないんじゃ話にならないよね』
希美は母親にそう言っていた。
そして少し柄が悪いがバレー部の強い高校に狙いをつけていた。

これを機に、希美は前者の高校を目指すことにした。
入院中も必死で勉強し、一ヶ月で退院したため何とか入試に間に合った。
そして第一志望の高校に合格し、今はそこに通っている。

「……だから、もうバレーはやめようって思ってたんです。
 でも小学校の頃に通ってたバレー教室からお呼びがかかったんですよ。
 あの保田さんのところです」
「保田さんはそのこと知ってるの?」
「はい。事故のことはニュースでも取り上げられましたし。
 保田さんとよっしーには言いました」

「クラスの友達には?」
「……言ってません。薄々気付いてる子はいるみたいですけど」
――紺野は全然気付いてないみたいだけどなぁ
雄一はその一言を噛み殺して、話に耳を傾けた。

「最初はバレーなんかやめちゃおうって思ってました。
 でも皆引き止めてくれるし、なんか自分でも悔しいところあるし……
 だから保田さんのところでちょっとづつでも練習することにしたんです。
 年下の子を教えるのも立派な練習ですしね」
いつのまにか、辻のラーメンを食べる手は止まっていた。

「ドラムもそうなんです。
 どうでもよかったんですよ、ドラムなんて。
 でも紺野ちゃんたちが何度も誘ってくれるし。
 最初はうざいって思ってたんですけどね」
――やっぱりな

「でも、そこまで熱心に誘ってくれるんならやってみようかなって思って……」
「それじゃ、やってくれるの?」
宮田の顔が満面の笑みになった。
「……まあ、頑張ります」
「頑張ろう、頑張ろう」
宮田が辻に握手を求めた。
辻はすっと右手を出し、握手を交わした。
雄一も続いて右手を差し出す。
二人との握手をしてから、辻は口を開いた。
「ところで、ドラムはどこにあるんですか?」

雄一と宮田の表情が固まっていくのを、辻は見逃さなかった。

その日、辻を入れた4人で屋上に集まった。
雄一と宮田が来る頃には、紺野と辻が待っていた。
「辻ちゃんの話はさっき聞きました」
「そう」
雄一は一言で返事をする。

「ところで、頼んでたあれ、持って来てくれた?」
「あ、はい。これです」
紺野はカバンの中から薄い冊子を取り出した。
「なに、これ」
宮田が横から口を挟んだ。
「楽器のカタログ。
 紺野ちゃんの家、楽器屋らしいから頼んでたんだ」
「俺にも見せろよ」
「待てって」
雄一はコンクリートの床にカタログを広げた。
4人はそれを覗きこむ。

ギターのページは飛ばして、ドラムを見てみる。
「高いなあ」
雄一はカタログから目を上げた。
「こんなもんですよ。
 そもそもドラムを扱ってる店って少ないんですよね」
「なんとかなんないの、紺野ちゃん」
宮田はすがるような声を出した。
「そればっかりはちょっと……」
紺野は困惑顔を作った。

「ちょっと、いいですかぁ」
黙っていた辻が口を開いた。
「なに?」
「今、4人だけですけど4人でクラブって作れるんですか?」
「うん、それなんだけど……」
宮田は口ごもった。
「あと一人だけいれば、すぐにでも申請するんだけど」
「そうですかぁ」
辻は別段、気を落とす様子もなかった。

雄一はよっぽど松浦のことを話そうかと思ったが、勝手に名前を出されては向こうも迷惑に違いない。
宮田のことだから、松浦にしつこく頼みこむのは目に見えている。

「やっぱり高橋しかないかな」
宮田が出し抜けに高橋の名を出したので、雄一は驚いた。
「高橋?」
「お前、知らないのか?
 元吹奏楽部なんだぞ。
 クラスでは皆知ってるぞ」
もちろん雄一も知っているが、あえて言わなかった。
話の外に追い出された紺野と辻は、クラスの噂話をしている。

「吹奏楽の奴から聞いたんだけど、トランペットのパートだったらしい」
「トランペット?」
雄一は思わず大声を出してしまった。
隣で話していた紺野と辻が振り向く。
「なんだよ、いきなり」
宮田も少し引いているようだった。

「いや、あいつ前はフルートやってたって言ってたんだけどな……」
「でも吹奏楽の奴がパート間違えるわけないだろ」
「じゃあ、嘘ついてたってことか?」
「そうじゃねえの?」

雄一は先日会った時に高橋が持っていた黒い箱を思い出した。
言われてみれば、楽器が入っていそうなデザインだ。
サイズもトランペットのものだった。
学校のどこかでトランペットの練習をしていたのだ。

「でもなんでそんな嘘ついたんだろうな」
「さあ……」
宮田は首を傾げた。

「まあ、どっちにしてもだ」
雄一は一拍子間を置いた。
「吹奏楽やめたぐらいだし、今更高橋がブラバンに入るか?」
「やってみなきゃ分からんだろ」
最近、雄一は宮田のしつこさに感心していた。
ここまでくるとしつこさも根性に思えてくる。

「小島、たまに高橋と話してるよな。
 仲いいのか?」
「別に。ちょっと知り合いなだけ」
「どっちにしても俺よりは面識あるじゃん。
 今度、それとなく話してくれない?」
「やだよ。前もちょっとブラバンの話したけど興味ないみたいだったし」
「気が変わってるかもしれないだろ」
「はいはい」
――やっぱりしつこいのは考え物だな……
宮田の根性は、尽きるところがないようだった。

2日後、松浦は久々に登校してきた。
「春なのに風邪なんかひいちゃって。
 39度も熱出ちゃったんだよね」
隣の机で話しているのを、雄一はこっそり耳に入れていた。

松浦が休んでいる間、雄一にメールは来なかった。
雄一から送るわけにもいかず、それがずっと気になっていた。
「なんでメールくれなかったの?
 心配してたんだよ」
女子の一人が不満そうな顔をして尋ねた。
ここぞとばかりに雄一は身を乗り出す。
「ごめんごめん。
 しんどくてメールなんかできなかったんだよ。
 テレビ見るのもしんどかったよ」
メールをもらえなかったのは自分だけではなかったのだ。
一安心して胸をなでおろす。

「宿題やってきたの?」
「やってないけど……休んでたって言えば許してもらえるでしょ」
「やっといた方がいいよ。私、見せてあげる」
「ありがとう。じゃあやっとこうかな」
松浦が自分の席に戻ったため、雄一も聞き耳を立てるのはやめた。

昼休み、雄一は高橋を呼びとめた。
「なに? 購買行きたいんやけど」
「まあ座れよ」
雄一が前の席を指差す。
「なんなの?」
高橋は静かに腰を下ろした。

「吹奏楽にいた時、フルートやってたんだよな?」
「……うん、そうやけど」
「嘘つけ。本当はトランペットだったんだろ」
「いや……」
高橋の目は宙を泳いでいる。

「なんでそんなとこで嘘つくんだよ」
「なんでもええやん。
 話ってそれだけ?」
「おい、なんで嘘ついたのか理由言えよ。
 この間会った時もトランペットの箱持ってたんだろ」
「持ってたけど」
「あれはなんで隠したんだよ」
「……練習してんのがばれたくなかったんよ」
雄一は不思議そうな顔をする。

「なんでまだ練習してるんだ?
 吹奏楽やめたんだから意味ないだろ」
「吹奏楽はやめたけど、トランペットはやめてないんよ。それだけ」
高橋はよく分からないことを言った。
「じゃあフルートって嘘ついたのはなんでだよ」
「しらへん!」
高橋は怒った様子で席を立った。
そのまま振り向きもせずに教室を出て行く。
残された雄一はクラスメイトの視線を一身に集めていた。

「無理だよ、あれは」
雄一は宮田と向き合いながら相談していた。
「確かにあれは……無理かもしれん」
宮田の声もさすがにトーンが低い。
「でもトランペットやってることは間違いないんだろ?」
「らしいな。でもブラバンに入ってくれるかどうかは関係ないじゃん」
「それもそうだよな」
宮田は心底がっかりした顔でため息をついた。

「そんなに落ちこむことか?
 こうなることはなんとなく分かってたよな?」
「そうだけど」
煮え切らない態度の宮田に、雄一は断定するような口調で言った。
「別の人、探そう。それでいいな?」
宮田は返事をしなかった。

まずはどうにかして松浦と二人になる必要がある。
理科の時間、雄一は早めに理科室にやって来た。
松浦は友達と共に来た。
雄一の向かいの席で楽しげに雑談を交わしている。
宮田はまだ来ていない。
授業が始まる数分前になって、松浦の友達はトイレに席を立った。
周りの生徒がこっちを見ていないのを確認して、雄一は声をかけた。

「松浦」
「なに?」
松浦はそっけない答えを返す。
「風邪、大丈夫?」
「うん。ありがとう」

「……この間はごめんな」
「なにが?」
「なんか気使わせちゃったかなあ、とか思って」
「そんなでもないよ。
 映画はよく見に行くし」

「俺もあそこの映画館、よく行くんだ。
 いつもあんまり人いないからスクリーンもよく見えるし」
「ブラバンの方、大丈夫なの?」
松浦から要点を切り出してきた。

「それがさ、あと一人足りないんだ」
「4人までは揃ってるんだ」
「うん。楽器はなんでもいいんだけどね」
「大変だね」
他人事のような口調だ。

「そういえば、この間バイオリンやってるって言ってなかった?」
「ああ、やってるよ」
「結構、上手いんじゃない?」
「そうでもないよ。先生に誉められたことも少ないし」
「個人レッスン?」
「うん、まあね。大学生なんだけど」
「へえ。いくつ?」
「大学二年。3つ上だけどものすごい上手いよ」
「そうなんだ」

会話が途切れたところで、雄一は尋ねた。
「単刀直入に聞くんだけど、ブラバン入ってくれないかな?」
「悪いけど、無理」
松浦はきっぱり断った。
「前にも言ったけど、テニス部があるから。
 これでもレギュラーだし」
「……そうだよな」

「ギリギリ間に合ったー」
雄一が肩を落とした時、松浦の友達が戻ってきた。
松浦はまた雑談を始める。

雄一の隣に宮田が突っ込んできた。
宮田は息を切らしている。
「いやー、大の方してたんだけど、遅刻するかと思った」
宮田の後ろからはサッカー部の連中がやって来た。
その中の一人と目が合い、雄一は顔をそむける。
しかし連中の視線は雄一ではなく、宮田に向けられ珍しく、雄一の昼食は弁当だった。
不精な母親が弁当を作るのは週に一度くらいだ。
その日の時間割は移動教室や体育があって早弁しなかったために、昼休みまで弁当がまるまる残っていた。
雄一が弁当を開いて周りを見ると、教室にはほとんど人影がなかった。
ほとんどの生徒が食堂や購買に行っているらしい。
弁当を持ってきている生徒も、いつのまにか姿を消していた。

後方を振り返ると、高橋だけが弁当を食べている。
教室には雄一と高橋の二人きりだった。
雄一はできるだけ意識せずに前に向き直った。

黙々と弁当を食べ始めて半分ほどで、高橋が話しかけてきた。
「なあ、今日は一人なん?」
訛りは相変わらず抜けていない。
「宮田くんは?」
雄一は前を向いたまま答える。
「食堂。
 高橋も一人だな」
「まあね」
顔を合わせずに話をするのは初めてだった。
背中に向かって話す高橋も妙な気分だろうが、誰もいないところに返事をする雄一も変な感触がした。

「ブラバン、まだ集まってないん?」
「あと一人だけどな」
「大変やね」
「高橋が入ってくれればすぐに解決するんだけどな」
返事はなかった。
雄一はまた黙々と弁当を食べ始める。

「……どうしてもって言うんなら入ってあげてもええよ」
一瞬、高橋の発言の意味が分からなかった。
「ほんとか?」
雄一はすぐさま振り返って高橋の顔を見た。
何故かは分からないが、少し赤くなっているような気がする。
「どうしても見つからないって言うんなら」
高橋の足元には、トランペットの黒い箱が置いてある。
「でも、どうして……」
雄一は思わず尋ねた。

「ブラバンに入らへんなんて一回も言ってないし」
「でも……」
「別に私はいいよ、入らなくても」
「あ、分かった分かった。もう訊かないから入ってくれ」
そう言うと高橋は満足げな笑みを浮かべた。
「じゃ、入ってあげよう」

高橋は弁当の残りを食べはじめた。
雄一はあまりにもいきなりのことに驚いて、目の前の弁当が喉を通らなかった。

高橋の入部を聞いた宮田はかなり興奮した様子だった。
「ほんとか! 高橋が入ってくれるのか」
「うん。でもなんで吹奏楽やめたやつが今更ブラバンに入るのか不思議なんだよな。
 前にフルートやってるって嘘ついた理由も分からないし。
 そもそも話が突然すぎるし」
「なんでもいいんだよ、そんなのは」
宮田は笑顔が隠しきれないらしい。
「これでやっと五人揃ったな」

「ちょっと気になるんだけど」
「何がだ?」
「五人揃ったのはいいんだけど、このメンバーで何やるんだ?」
「何って、ブラバンだろ」
「でも楽器が……」
「ああ、そのことか」
確かに五人集まったが、楽器がバラバラなのだ。
アコギとエレキとピアノとドラムとトランペット。
吹奏楽や軽音のような統一性はない。
「なんとかなるって」
気楽に笑う宮田を横目に、雄一は先行きの不安を感じていた。

放課後、屋上で紺野と辻に高橋を紹介した。
「高2の高橋愛っていうんやけど、よろしくね」
「よろしくお願いします。紺野っていいます」
「どうも、辻です」
紺野に続いて辻も慌てて挨拶をした。

「それじゃ早速、これ書こうか」
宮田はポケットから紙切れを取り出した。
「なんですか、これ」
「生徒会に出す用紙。
 これにクラブ名と部員の名前を書けばいいんだよ」
「部長は誰にするんですかぁ?」
辻は用紙の『部長』の欄を指差した。
「宮田でいいんじゃないか?」
「いや、俺代表者とかやったことないからやだよ。
 高橋は吹奏楽だったんだし、高橋が部長でいいんじゃないか?」
「高橋さん、吹奏楽部だったんですか」
紺野が驚いた声を上げた。

「いやよ、部長なんか」
「でも高1にやらせるわけにはいかないだろ」
「じゃあ小島でいいじゃん」
「え?」
雄一の声は裏返っていた。

「……うん、それもそうだな」
「でしょ? 案外リーダーに向いてるかもよ」
「ちょっと、俺部長なんか無理だって」
「大丈夫だよ。別に楽器下手でも部長は務まるから」
宮田は雄一に的外れな励ましの言葉をかけた。

「いいんじゃないですか」
紺野も乗り気で口を挟む。
「辻ちゃんは?」
「別にいいと思いますよぉ」
「じゃあ決定だ」
「あ、いや……」
雄一が止める前に、宮田は用紙にボールペンを走らせた。

「じゃ副部長は高橋な」
「ちょっと、勝手に決めないでよ」
「だって会計なんか面倒だぞ?
 予算は俺が適当に上手いこと言って稼ぐから、高橋は副部長な」
宮田は有無を言わさず次々に名前を書きこんでいく。

「宮田さん、結構字下手なんですねぇ」
辻はお構いなしに毒を吐く。
「だったら自分で名前書けよ」
宮田はボールペンを辻に手渡した。
辻の名前は自分で書いたにも関わらずミミズのはったような文字だった。

最後に宮田は『ブラスバンド部』と大書した。
「よし、完成!
 それじゃあ代表者、出してきてくれ」
宮田は雄一に用紙を押し付けた。
「俺がか?」
「うん。あ、副部長も一緒の方がいいな」
「私も行くん?」
「うん、そう。行ってらっしゃーい」
宮田は右手を大きく振った。
渋々雄一が立ちあがると、高橋もついてきた。

「生徒会室ってこの校舎だっけ?」
「私も知らんよ」
高橋はぶっきらぼうに答える。

「……ちょっと聞きたいんだけど」
「なに?」
こんな調子じゃまともに答えてくれそうな気はしない。
だが一応、雄一は尋ねてみた。
「なんで吹奏楽部やめたん?」
「それってどうしても知りたいこと?」
「まあ、それなりに」
「ええよ、教えてあげるわ」
高橋は突然、立ち止まった。
「あのクラブ、上手い子しか演奏できないの」
雄一は黙って耳を傾けた。

「知ってると思うけど、部員の数がすごい多いやん? だからステージに立てない人もおるんよ。
私はそんなに上手くなかったから、2年生になっても演奏させてもらえんかったの。
 だからイライラしてやめちゃった」
雄一にとっては意外なほど単純な理由だった。
また嘘かとも思ったが、どうも口調が本気らしい。
「そうなんだ」
「この話、他の人にはせんといてよ」
高橋は再び歩き出した。
高橋は自分にだけ理由を話してくれたのだろうか。
意味深な雰囲気を感じながら、雄一は後を追った。

少しもめた後、結局雄一が用紙を渡すことになった。
「失礼します」
ドアノブを押して中に足を踏み入れる。
隅の机に真面目そうな生徒会長がいた。
「これ、新しくクラブ作るんですけど……」
用紙を差し出すと、生徒会長は無言で受け取った。
しばらく品定めをするように用紙を眺める。

「部長と副部長?」
生徒会長は雄一と高橋を交互に見やった。
「この小島雄一っていうのが君?」
「そうです」
「主な活動場所は?」
「えー……」
立ち入り禁止の屋上と答えるわけにはいかない。
「理科準備室です」
高橋が横から口を出した。
生徒会長はあっさり納得したらしく、用紙にそう書き足した。

「えーっと、じゃあ簡単な説明だけしとくから。
 最初の3年間は同好会として始めるから、顧問も部室も無しね。予算も出ないから」
「予算、出ないんですか?」
「うん。部に昇格しないと予算は出ない。
 詳しいことは生徒手帳に書いてあるから」
どうやら宮田の活躍の場はないらしい。
「もう帰っていいよ」
生徒会長は雄一たちを追い払うような手つきをした。
部屋を出る時、高橋は憎々しげな顔を作っていた。

雄一らが屋上に戻ると、3人は輪になって何か話しこんでいた。
「出してきた」
「おう、ごくろうさん」
「なに話してるんだ?」
雄一は宮田の横に腰を下ろした。

「いや、辻ちゃんがバンドの経験者を連れてきてくれるらしいんだよ」
「わざわざ来てくれるの?」
「そう。辻ちゃん、写真見せてあげて」
辻は携帯の画面を雄一に向けた。
金髪の女性がVサインで写っている。
「どっかで見たような……」
「吉澤さんだよ。前に辻ちゃんのバレー教室に行った時にいた女子大生」
「あー、いたいた」
「えーっ、誰? 誰?」
事情の飲みこめない高橋は視線を泳がせながら尋ねた。
「辻ちゃんの知り合い。あとで話すから。
 それで、吉澤さんが高校の時バンドやってたらしいんだよ」
「楽器は?」
「楽器はきいてないですけど、一応今度呼んでみますよぉ」
「そういうわけだ」
高橋は紺野から話を聞いている。

「それで、いつにするんだ?」
「部長が決めろよ。俺はいつでもいいから」
「辻もいつでもいいですよぉ」
「私も別に構いませんよ」
「私は……日曜日じゃなければ大丈夫だけど」
「じゃ、土曜日な。土曜には呼べるよな?」
「オッケーですよぉ」
「それじゃ土曜日の1時にまた屋上集合な」
雄一はなんとなく部長らしさを感じていた。
今まで仕切ったことがないから気付かなかったが、もしかしたら本当に向いているのかもしれない。

「今日はこれで終わり?」
高橋は早くもカバンをつかんでいた。
「うん、まあ一応」
「それじゃ私帰るね。
 また明日。バイバイ」
高橋は高1の二人に向かって手を振り、屋上を出て行った。
「どうしたんだ、高橋は」
宮田は呆気に取られたように高橋の後ろ姿を眺めていた。

理科の授業中、教師はいつもの無駄話を始めた。
隣の宮田はすっかり眠りこけている。
雄一も両腕を枕に、机に突っ伏して寝る体勢をとった。

「ねえ、小島くん」
頭の上から松浦の声が聞こえた。
雄一はゆっくりと体を起こす。
「なに?」
「ブラバン部できたらしいね」
「うん、昨日やっとできた」
「高橋さんが入ってくれたんだってね」
「うん。
 前に吹奏楽部にいたから楽器はもともとできるらしい」
「じゃ、頼もしいね」
「でもトランペットらしいよ」
「トランペット?」
「うん。だからうちのクラブ、ブラバンの割には色んな楽器やってるんだ」
こうやって授業の合間に松浦と話すことが、雄一には幸福でたまらなかった。

「松浦もバイオリンの方は?
 演奏会とかに出ないの?」
「まだそこまでは上手くないから。
 そのうち先生に頼んで出してもらおうかな」
「……先生って男だったよな?」
「うん。大学生の先生」
その先生が密室で松浦と二人きりでいるのを想像すると、雄一は見ず知らずの男に嫉妬するのであった。

「宮田、行こう」
放課後、雄一が声をかけると宮田はほうきを持っていた。
「今日は俺、掃除当番だから先に行っといて」
「そうか、分かった」

雄一は一人で廊下に出た。
そのまま屋上への階段を上がって行く。
すると、一つ上の階で木下という高2の部員が腕組みをしていた。
木下は高2の中で次期キャプテン的な存在である。
今日も部活があるはずだが、なぜこんな所で油を売っているのだろうか。
そういぶかっていると、木下は雄一に気付いて声をかけた。
「小島、ちょっと」
「なんか用か」
「話がある」
「ここでか?」
すぐそばには高3の教室がある。
「屋上に行かないか」
「でもあそこ、立ち入り禁止じゃ……」
「大丈夫だよ。誰も来ないから」
雄一が先に立って歩くと、木下も後ろからついてきた。

二人とも押し黙って歩き続ける。
「今日はクラブ休みなのか?」
「キャプテンには塾ってことで休んだ。
 高2の奴らにはこのことは言ってあるから適当にごまかしてくれるだろ」

屋上にはすでに紺野が来ていた。
「紺野ちゃん、悪いけどしばらく外に出ててくれない?」
「分かりました」
紺野はなんとなく気まずい雰囲気を感じたのか、すぐに屋上を出て行った。

「今の、後輩か?」
「うん。まあ、座れよ」
雄一はコンクリートの地肌に腰を下ろした。
木下も雄一の正面に座りこむ。
カバンはそれぞれ二人の横に並んでいる。
空はよく晴れて、物陰のない屋上では眩しすぎるぐらいだった。

「ブラバン部、昨日できたんだってな」
「有名なのか、それって」
「俺はサッカー部の奴らから聞いたけど」
「話って、それか?」

雄一は話の気配を感じ取っていた。
「今更ブラバンをやめるつもりはない」
「そうだろうな。そう言うと思ったよ」
木下は手持ちぶさたそうに両手を組んだ。
「でもな、やっぱり俺らは宮田にそそのかされたんじゃないかって気がするんだ」
「そんなことない」
「よく考えろよ。ブラバンの話はあいつが持ちかけたんだろ」
「そりゃそうだけど、俺はギターやってみたかったんだよ」
「嘘だ」
「本当だ!」

雄一は半ばむきになって答えた。
「いい加減なこと言うんじゃねえよ」
「お前、サッカーに自信が無くなっただけだろ?
 でも小島には才能があるし、自信だって……」

「しつこいよ、もう。ほっといてくれ」
雄一はすっくと立ち上がった。
「帰ってくれ」
「……また来るから」
木下はカバンをつかんで屋上を出て行った。
入れ替わりに紺野が現れる。

「今の、もしかしてサッカー部の人ですか」
「うん、まあ……」
「小島さん、ブラバンを見捨てたりしませんよね?」
「当たり前だよ。俺はやめたくてサッカー部やめたんだから」
「……ならいいですけど」
紺野の目は少しだけ雄一を疑っているようだった。

土曜日の昼下がり、雄一は人気のない校舎を歩いていた。
ほとんどの部活は午前中で終わっているから、校舎には物音ひとつない。
土曜日の学校は閑散として、うら寂しい雰囲気がある。
窓の外は薄曇りで、雲の切れ目からは4月下旬の光が漏れている。

屋上のドアはすでに開いていた。
「あ、小島さん」
「早いね、紺野ちゃん」
紺野は体育座りでメールを打っていた。
雄一はギターを置いて、紺野と向き合う形で座りこんだ。
「いつ来たの?」
「ついさっきです。
 辻ちゃん、もうちょっと時間かかるらしいですよ」
「あ、そう」
「小島さんも早いじゃないですか」
「まあ、部長だからね」

紺野は白いブラウスにジーンズを履いていた。
制服とは違う紺野の出で立ちはいつもとは違う印象だった。
「そういえばまだ小島さんのアドレス聞いてなかったですよね」
「うん。そうだね」
「教えてもらえませんか」
「いいよ」

雄一はポケットから携帯を取り出しながら、少しドキドキしていた。
先日、辻にアドレスを教えた時とは明らかに何かが違う。
紺野は雄一の携帯を片手に、自分の携帯にアドレスを打ちこんでいる。
「さっそくメールしますね」
雄一の手元で携帯が震えた。
「ありがとう。後で見とくから」
雄一は携帯をポケットに突っ込む。

「小島さん」
「ん?」
「高橋さんってどんな人ですか?」
いきなり予想もしない質問をかけられた。

「どんなって……まあ、別に普通だと思うけど」
クラスの中では高橋はどちらかと言えば目立つことのない生徒だった。
「でもきれいな人じゃないですか」
「きれいか……」
「そうですよ。すっごい美人じゃないですか」
確かに初対面の時、かわいい子だとは思った。
しかし半月ほど経って、初めての時ほどは顔を意識しなくなった。
「まあ、そういえばそうか」
ぼんやりと高橋の顔を思い浮かべてみる。
無表情で人のことなど関心がないというような顔。
そういえばあまり笑っているのを見かけていない。

「高橋さんって元吹奏楽部らしいですけど、なんでやめちゃったんですか?」
一瞬迷って、雄一は知らないふりをした。
「さあ? 聞いてないけど」
「でもトランペットやってるなんて珍しいですよね。
 女の人は大体フルートとかやると思ってました」
「フルートねえ」
高橋に嘘をつかれたことを思い出した。
何故あの時トランペットであることを隠したのだろうか。
未だに理由は分からない。

「おはよー」
ドアが開いて、宮田と高橋が現れた。
「一緒に来たのか?」
「正門で偶然会った」
高橋は今日もトランペットの箱を持っている。

「宮田、エレキは?」
「……忘れた。だって皆もう聞いたじゃん」
「私と辻ちゃんは聞いてへんよ。あと吉澤さんも」
「あ、そうか。今日は吉澤さんに聞いてもらうんだった」
「なにやってんだよ」
宮田はへらへら笑っている。

「今度たっぷり聞かせてやるから」
「私、別にもういいですよ」
紺野は右手を左右に振っている。
「俺もいいや」
雄一が真顔で答えた。

1時半頃、ドアが開いて二人が現れた。
以前会った時は気付かなかったが、吉澤は髪を茶色に染めていた。
白いパーカーの袖をまくりあげている。
「暑いねー」
吉澤はそう言って雄一らの方に近付いてきた。

辻が横に立って紹介する。
「私がバレー教えてるところで一緒にやってる吉澤さんです」
「よっすぃーでいいよ、よっすぃーで。あ、『しー』じゃなくて『すぃー』ね」
吉澤は一人はしゃいでいるようだった。
「なんかののから話を聞いてると面白そうだったんで、私も入れてもらえないかなーと思って来ました。
 高校の時にバンドやってたから、ちょっとは力になれると思います」
宮田が尋ねた。
「楽器は何やってたんですか?」
「楽器はねえ、これやってた」
吉澤は左手で何かをつかむような形を作り、右手をそれっぽく上下させた。
ギターの真似だ。
そう気付いた雄一は声を上げた。
「そうなんですか。僕ら二人ともそれやってるんですよ」
吉澤は顔をぱっと明るくする。

「へえ、珍しいね。二人ともベースやってるなんて」
「え、ベース?」
宮田や高橋が口を押さえて笑っている。
「うん。高校の時はベースなんかやってるの学年で一人だけだったんだけどね。
 ベースって今、人気なの?」
「はあ、まあ……」
雄一はため息のような返事をした。

「じゃ、順番に披露してもらおうかな」
ジーンズ姿の吉澤はコンクリートの上にあぐらをかいた。
「披露っていっても……」
雄一が言いかけたのを、宮田が続けた。
「すいません、辻ちゃんはドラムがまだ無いですし、紺野ちゃんのピアノはここに無いですし……
 僕はエレキ忘れちゃいました」
「なんか、楽器バラバラだねえ。
 あとの二人は?」

高橋はここぞという時にはっきり言ってくれる。
「私はトランペットです」
「あ、僕はアコギです。アコースティックギター」
雄一もつられてそう言った。
「楽器、無茶苦茶じゃん。大丈夫なの?」
「多分……」
宮田は適当に相槌を打つ。
「まあいいや。面白そうだし。
 じゃあまずはギターから聞いてみようかな」

雄一がギターを構えると、吉澤は手を叩いた。
「よっ、待ってました!」
頃合いを見計らって、雄一はいつも通り弾きはじめた。
最近は家でもよく練習しているから、演奏できる曲も増えてきた。

やっと頭から覚えた『Let it be』を弾いて、指を止めた。
吉澤や紺野が拍手している。
「おー、よかったよかった」
「前より全然上手くなってますね」
「練習してるから」
雄一は得意げな表情を作った。

「次はトランペットね」
吉澤の声に反応して、高橋が無言で立ちあがった。
手には金色に光るトランペットを持っている。
雄一は高橋がトランペットを持つ姿を初めて見た。

「じゃ、私も『Let it be』でいきます」
吉澤がおー、と声をあげる前に高橋はトランペットに口をつけた。
高橋の演奏は、楽器が違うにも関わらず雄一との練習量の違いを見せつけるものだった。
特にこの曲は相当練習していると見えて、ところどころためたり長く吹いたりしている。

演奏が終わって、しばらくは吉澤の口が開いたままだった。
「いやー、凄い凄い」
代わりに宮田が手を叩く。
「高橋がそんなに上手だとは思わなかった」
紺野や辻も拍手を惜しまない。
「さすがですね」
「かっこよかったぁ」
高橋は口元に微かな笑みを浮かべている。
「えー、そうかな?」
「そうだよ。今、普通に上手いなって思ったもん。
 なあ、小島」
「うん、そうだな」
雄一はかくかくと頭を上下させた。

正気を取り戻した吉澤が声を上げた。
「ねえ、セッションやったらどう?
 同じ曲なんだからできるんじゃない?」
「それいいですね」
「でしょ!」
吉澤は宮田と頷きあっている。
「俺はいいけど……」
雄一はちらっと高橋の顔を見た。
「別にいいよ、私も」
「じゃあやろう。早速いってみよう。
 俺が合図するから」
そう言われて、二人は楽器を構えた。
「いちにーの、はい」
宮田の声を聞いて、雄一は指を伸ばした。

多少、雄一のミスがあったが、結果的には成功した。
基本的に高橋が雄一に合わせる形になったが、それでも元のイメージを崩さずに演奏できた。
雄一は弾きながら、何度か高橋の顔を見た。
高橋の横顔は、頬が膨らんでいつもとは違う顔のようだった。
『すっごい美人じゃないですか』
紺野の言葉を思い出しながら、もう一度頬の膨れた横顔を盗み見る。
絶世の美女とは言い難かったが、こんな顔も悪くはないと思った。

演奏が止むと、宮田と吉澤はここぞとばかりに手を叩いた。
「ちょっと感動したかも」
「うん、私も」
高橋は黙ってはにかんだような笑顔を浮かべている。
雄一が高橋の笑顔を見たのは、これで三度目のはずだった。
回数をはっきりと覚えているのは、笑ったことが少ないからだろうか。
それだけではないような気が、雄一にはしていた。

「今日は楽しかったよ。また見に来るね」
結局、吉澤は二人の演奏を聞くと帰っていった。
「今度は俺のエレキも聞かせますからね」
「楽しみにしとくわ」
吉澤は手を振りながら屋上を出た。
「……なんのために来たんだろうな」
雄一がつぶやくと、高橋が振り向いた。
「いいんじゃない。いい人みたいだし」
高橋が誰かを誉めているのを聞くのは、これが初めてだった。