256

自称K 投稿日:2003/08/28(木) 19:02

―――傘―――


「……あ〜あ、雨降ってきちゃったな……」

 タクシーの中、なつみは降り出した雨を見て呟いた。
 独り言のつもりだったが、運転手には聞こえていたらしい。

「お客さん、傘持ってないの?」

「今日に限って折りたたみの、忘れちゃって」

 なつみのマンションまでは、タクシーの入れるところから少し距離がある。
 走る、という選択肢もあったが、すぐ傍の店の屋根で雨宿りする事にした。

(あーあ、なんだかなぁ……)

 仕事は相変わらず忙しい。それに、この予想外の雨で心は少し沈み気味だ。

「あれ? 安倍さん? 安倍さんでしょ」

 そこには、締まった体つきの男がいた。歳は若く、20代前半だろう。
 また、サインかなんかを求められるのかと思ったが、どうやら違うようだ。
 男は小柴明と名乗った。

「ほら、中学んときいっしょだったっしょ」

 そう言われて、そんなやつもいたなぁ、と朧気に思い出した。
 明は東京の大学に一浪して入ったらしい。
 少しばかり昔話やら北海道の話をして、なつみは明に少なからず好感を持った。
 芸能人になったと知っても普通の旧友となんら変わらなく接してくる明は、
 他の友人達と違っていて、新鮮に感じられた。

「――そう言えば、安倍さん傘は?」

 しばらくして、ふと気付いたように明。
 持ってない。そう告げると、自分の傘を差し出した。

「これ、やるよ」

「え……、でも、小柴君は?」

「俺は走ればいいよ。どうせ服とか安もんなんだから。洗えば問題ないし」

 言うなり、明はもう走り出してた。
 傘を返そうとしていた手は、どこか滑稽になり、慌てて引っ込めた。
 遠くから、じゃあな、という声が聞こえた。
 なつみは返事をする代わりに、微笑んだ。その笑みを明が見ていたかどうかはともかく、
 よく、天使のような、と形容されるなつみの笑顔よりも、その時の笑みは可愛く、
 どこか儚げだった。

 明と付き合い始めてかなりの時間が経っても、なつみはあの時の事を忘れない。
 ……玄関先の傘立てを見ては、独りで微笑むのだった。