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My Happy Ending 投稿日:2004/08/08(日) 20:29

第1話−Prologue−

キーンコーンカーンコーン・・・
キーンコーンカーンコーン・・・・・・

授業の終わりを告げるチャイムが、学校に鳴り響く。
生徒たちはそれぞれに帰り支度を始める。
「慎哉、悪い。今日委員会あって一緒に帰れない」
前の席から話し掛けてくる親友に、軽く応答してから、俺は机に突っ伏した。
それと同じタイミングで、携帯が震える。
軽く顔を上げ、ディスプレイを確認すると、希美からメールがきていた。

『のん今日は部活ないから一緒に帰ろう(*^_^*)』

俺が『昇降口で待ってる』と返信すると、丁度担任がやってきて、HRが始まった。
少しすると、親友、小笠原優(おがさわらゆう)が、体を後ろに向け、
爽やかな笑顔で話し掛けてきた。

「今日は希美ちゃんと一緒に帰るの?」
「そうだよ。なんで知ってるんだよ」
俺が不思議そうな顔で答えると、優は笑顔を崩さないままこう言った。
「さっき携帯見てたときの慎哉の顔、凄く嬉しそうだったから」
優に指摘され、顔が赤くなっていくのを感じた。
今度からは気をつけよう。
その後、優と他愛もない話をしているうちにHRは終わり、下校の時刻になった。
俺は友人に別れを告げると、希美が待っているであろう昇降口に、
足早に歩を進めた。
案の定、俺が着いた頃には、既に希美は待ちくたびれた様子だった。
俺の姿を確認すると、希美は満面の笑みでこちらに近寄ってくる。
「遅いよぉ〜」
「ごめんごめん」
膨れっ面の希美の機嫌を取るように、慎重に会話を進めていく。
学校なんかで泣かれたらたまったもんじゃない。
そんな俺の心配をよそに、希美は無邪気だった。
「久しぶりにお兄ちゃんと一緒に帰るよ♪」

希美は俺の妹である。
しかし、俺と希美が幼い頃に両親が離婚してしまったため、
希美とは苗字も違ければ、住んでる家も違うのだ。
希美は母さんに引き取られ、俺は親父に引き取られた。
その所為なのか、希美はブラコンだ。
自覚症状もちゃんとあるらしい。
俺も好かれて悪い気はしない。
寧ろ自分も、他の家庭の兄妹よりもシスコンであると思う。

「お兄ちゃん、ののレギュラーになれたんだよ!!」
帰り道、並んで歩いていると、希美から衝撃的な発言があった。
「レギュラー?お前が?」
俺は心底驚いた。
希美は現在女子バレー部に所属している。
高校1年生だ。
まず、1年なのにレギュラーになること自体凄い。
うちのバレー部は男子も女子も実力があれば、学年に関係なくレギュラー入り出来る。
しかし俺には、希美にそれ程の実力があるとは到底思えなかった。

それに、希美は人よりも身長が低いというハンデがある。
バレーにとって、身長が低いことは大きいだろう。
そんな希美がレギュラー入りしたというのだから、
きっと並々ならぬ努力を重ねたに違いない。
「よく頑張ったな、おめでとう希美」
「でもね、一人だったらきっとなれなかったよ」
「何で?」
「よっちゃん先輩が付きっきりでスパイクとか教えてくれたんだ」
「そうなんだ・・・あの吉澤がね」
吉澤といえばバレー部のエースだ。
人当たりもよく、男女関係なく支持率が高い。
勉強の方はあまりよろしくないようだが、運動に関してはズバ抜けた能力を持っている。
更に整った顔つきをしているものだから、年中告白されているらしい。
でも、誰とも付き合わないのはどうしてだろう。
そういえば今日吉澤も委員会のはずだ。
確か優と同じ体育委員だった気が・・・。

「お兄ちゃん?どうしたの?よっちゃん先輩がどうかした?」
「いや別に、何でもないよ」
俺は吉澤に関する思考を止め、希美との会話に集中した。
途中、希美のレギュラー入りのお祝いとして、
お互いのイニシャルが入ったストラップを買った。
俺の携帯にはN.Tの文字が入ったストラップ、
希美の携帯にはS.Nの文字が入ったストラップがついた。
希美は他に、加護にもあげるという理由で、A.Kも買っていた。
店を出てから数分歩くと、希美と別れなくてはならない。
道が違うのだ。
なんて言うんだ・・・。
『彼女と別れるのが寂しい彼氏』みたいな感覚を味わえる。
「じゃぁお兄ちゃん、また明日ね・・・」
希美も希美で、今にも泣き出しそうな顔で言うものだから、
別れる瞬間は多少の罪悪感を感じる。
「じゃあな」

希美が見えなくなるのを確認すると、俺も足早に帰路に着く。
あと少しで家、というところに、小さな公園がある。
ふと公園の方を見やると、丁度すべり台の天辺で、
女の子が男の子の頬にキスをしているところだった。
男の子は少し照れたような顔をしながら、女の子にお返しをする。
・・・そういえば。
俺と希美もそんなようなことがあった。
公園こそ違うものの、すべり台の天辺だったのは覚えている。
俺たち兄妹は年子だから、一緒に遊ぶことになんの違和感もなかった。
中学に入って、俺が希美を変に意識し始めるまでは。
別に恋愛感情とかじゃなくて、完全に兄としての感情。
妹を思う気持ちが優先しだしたのだ。
それまでは希美は俺が守る、みたいなものだった気持ちが、
希美の将来を考えられるようになっていた。

体にまとわりつく汗が気持ち悪さを生み出す。
俺は家に着くと、まず風呂に入った。
冷たいシャワーを浴びながら、考える。
近頃の考え事の主といえば、専ら部活のことだ。
部活について話す前に、少し自身について説明しよう。

俺は鳴海慎哉(なるみしんや)。
現在、モーニング高校2年B組。
バスケ部所属。
親友は2人いて、同じ学校の2B、小笠原優。
もう1人はハロー学園2年A組の真淵海斗(まぶちかいと)。
尊敬する人は、3年C組、櫻井翔太(さくらいしょうた)先輩。
翔太先輩は、バスケ部の部長もやっていて、ほんとに凄い人。
頭も良くて運動も出来てルックスも最高、パーフェクトな人だ。
好きな芸能人はAvril Lavigne。
だから特技はスケボー。
最近は子供にあたると危ないから、という理由で、スケボーが禁止な公園もある。
今は親父と2人暮らし。
彼女はいない。
こんなとこでいいかな・・・。

軽い自己紹介を終えた俺は、再び部活に思考を回す。
俺の悩みは、どうしてもレギュラーになれないことだ。
希美のときも言った通り、うちの学校は実力社会。
俺の周りもレギュラー入りしてる奴がたくさんいる。
俺は情けないことに、補欠にも入れない。
毎日毎日部活が終わってからも一人で練習に励んでいるのだが、
中々その成果が結果として現れない。
翔太先輩も、顧問の先生も、俺の頑張りは認めてくれているが、
レギュラーとなるとまた話は別だ。
俺には素質ってもんがないんだろうか。
こんなに頑張ってる俺が未だに補欠にも入れず、
毎日遊び歩いてる部員がレギュラーとはどういうことだ。
こうして悩んでいると、バスケをやめたくなる。
他のスポーツだったらそこそこいけるのでは?
そんな思いが俺を支配しようとする。
「・・・・ダメだ」
そうだ、ダメだ。
ここで諦めたら希美の兄として失格だ。
誰かにコーチしてもらうか・・・。
翔太先輩・・・は、ダメだ。
部長の個人指導なんか受けたら他の部員に恨まれてしまう。
この際吉澤にコーチしてもらうか・・。
あいつスポーツなら全般得意だったよな。
「明日にでも相談してみるか」
俺は決意を固めると、それまでの思いを流すようにシャワーを浴びた。

翌日、俺は1限目が始まる前に吉澤のクラスへと足を向けた。
吉澤は隣のA組、5秒とかからない。
ドアのところで中の様子を窺っていると、見知った顔が近づいてきた。
「慎哉じゃん、どーしたの?A組に来るなんて珍しいね」
「吉澤いる?」
「多分。よっすぃーーーーーーーーーーーーーーーー」
『今行くよごっちん』
近づいてきたのは後藤真希。
実は中2から高1まで付き合っていた奴だ。
サバサバした性格もいき過ぎていなく、中途半端に人を気遣える良い奴だ。
吉澤同様、年中告白されているらしい。
俺がA組にあまり行かないのは、後藤と会いたくないっていうのもあるかもしれない。
そんなようなことを優に話したら、「未練タラタラだね」と、
爽やかに言われた気がする。

「慎哉?大丈夫?」
「・・大丈夫」
「よっすぃー来たよ、んじゃぁゴトーは行くね」
サラっとそう告げると、後藤は俺の視界から消えていった。
入れ替わりに、吉澤が目に入る。
「何?なんか用事?」
俺より少し小さな身長の吉澤が、上目遣いで話し掛けてくる。
「うん、俺にバ」
俺が用件を伝えようとすると、吉澤はひらめいたような顔で言う。
「あ、まさか告白?んー鳴海に告られてもねぇ〜。万年補欠以下じゃさ」

プチ−ン

俺の脳内で何かが弾ける音が確実に響いた。
俺は何を考えてたんだ?
こんな奴にバスケを習おうなんて・・・。
「調子乗ってんじゃねーよ」
努めて冷静に、しかし最大の怒気を含め、吐き捨てるように言い放ち、
俺はA組を後にした。
後ろからは「用ってなんなんだよー」との吉澤の声が聞こえたが、
無視して教室に戻った。

第2話−Lunch time−

朝の吉澤の一件もあり、俺はすこぶる機嫌が悪かった。
それでもなんとか1限目から4限目までの授業を消化する。
「昼だ・・・」
俺は思い切り伸びをする。
昼飯になったときの、この開放感が堪らない。
今日は俺の心とはウラハラに天気が良い。
ので、屋上か中庭で食べるかな。
「優ー、購買行こうぜ」
いつも一緒に昼を食べている優に呼びかける。
「ごめん、今日も委員会でさー・・・」
「そっか、頑張れよ」
「うん」
もうすぐ体育祭だからな、体育委員は傍目にも忙しそうだ。
ということは、今日の昼は一人か。
久しぶりだが、悪い気はしない。
俺は久々に、一人で購買へと向かった。

優は人気者だ。
成績優秀、運動神経抜群、もちろん顔もスタイルもモデル並。
俺より5、6cmは高い。
第2の翔太先輩みたいなものだ。
そんな優と一緒に購買へ行くと、必ず優のファンが食べ物を譲ってくれるんだ。
俺もそれに便乗してちゃっかり毎日貰っている。
「・・・・・・」
いつもの調子で購買に来てしまった俺は、激しく後悔した。
もうないじゃん、パンとか。お茶とか。
無いものは仕方がない。
今日は昼飯抜きだ。
これもあれも全部朝の吉澤の所為だ。
明日は絶対に優を連れて来てやる、そう決心して、購買を過ぎようとする。
そんな俺の目の前に差し出された弁当箱。
俺の鼻に美味しそうな香りが到達し、腹が鳴る。
バンダナで包まれてはいるものの、きっと中身は美味しいに違いない。
そんな確信めいた香りがする。
俺は視線を弁当から、それを差し出している人物に移す。

「後藤・・・」
俺を真っ直ぐに見つめる後藤は、もう片方の手にも弁当箱を持っている。
「お昼ご飯、ないんでしょ?」
「うん・・・」
「コレ、食べて良いからさ・・」
そこまで言うと後藤は俯き、話すのを躊躇う。
心なしか耳も紅く染まっているように感じる。
「何・・?」
俺は後藤との沈黙に耐え切れなくなり、その先を急かす。
「あのね、んと、そのぉ・・・・・」
俺は「なんなんだよ」と言いたいのをグっと堪え、
後藤が話し出すのを待つことにする。
「・・・・・」
「えっと・・・・ね」
しかし、なんとも気まずい空気だ。
この場から一刻も早く逃げ出してしまいたい。
嫌な汗をかいているのが自分でもハッキリと分かる。
きっと俺のYシャツの背中は、うっすらと汗が滲んでいるだろう。
背中を気にしていると、ふと視線を感じた。
後藤に気づかれないように首だけを後ろに回すと、
そこには物凄い形相でこちらを凝視している希美と加護の姿があった。

「ひっ・・・」
ついつい小さく声を漏らしてしまう。
が、後藤には聞こえていないようだ。
しかし、今は希美たちに気を取られている場合ではない。
でもこのままだと後々面倒なことになりかねない。
「(早くしてくれ!後藤―)」
俺の切実な願いが通じたのか、後藤の口が開いた。
「食べて良いから・・・一緒に食べよう?」
「うん、OK。分かった。どこで食べる?あ!屋上にしよう!!」
俺は希美たちの視線から逃れるため、後藤の話に適当に返事をしてしまった。
それに気づかないまま、後藤の手を取り足早に屋上へ向かう。
「(よしっ、これで大丈夫だ)」
屋上につき俺が安堵の息を漏らしたのも束の間。
「慎哉・・?」
「ん?え?へ?」
この現状に今更気づいても時既に遅し。
屋上には俺たち二人しかいなかった。
後藤はさっきから不思議そうな顔をして俺を見ている。
しまった・・・つい希美たちに気を取られてしまった。
しかしこうなってしまったものは仕方がない。
俺は腹を括った。
「食おっか」
後藤はまだ少し紅い頬で、小さく頷いた。

俺たちは校庭が見渡せるフェンスの近くに腰を下ろした。
視線を左に移せば、3年の教室が少しだけ見える。
今日はほんとに快晴だ。
太陽の視線が痛い。
そして後藤からの視線も痛い・・・というか痒い。
後藤が弁当箱を開くと、中からは素晴らしい食べ物が顔を覗かせる。
極度の緊張からか、喉がカラカラに渇き、腹が減って死にそうだった俺は、
いただきますもなしに箸を伸ばした。
「もー、お行儀悪いんだから」
後藤の笑い声混じりのそんな声を聞きながら、俺の箸はどんどん進む。
2つあった弁当箱の1つを平らげ、2つ目に箸を伸ばそうとした瞬間、俺は止まった。
「後藤は食わないの?」
俺は自分の胃袋を満たすことで頭がいっぱいだったが、
気が付けば後藤はまだあまり食べていない。

「なんか・・・・お腹空いてないんだ・・」
「そうなんだ・・・」
会話はそこで途切れてしまう。
何か話題を見つけなければと思い、3年の教室に目をやる。
それにつられ、後藤も同じ方向を見やる。

「石川先輩?」「梨華ちゃん?」

俺と後藤が目にしたのは、3年の教室ではなく、
何故か3階のベランダにいる石川梨華先輩だった。

俺たちの学校は3年が2階、2年が3階、1年が4階と分けてあり、
よほどのことがない限り、他の学年の階に行くことはない。
石川先輩は3年なのに何故3階にいるのだろう。
俺と同じ疑問を後藤も抱いたのだろう。
思わず声に出していた。

「おかしいなぁ・・・今日は生徒会の仕事ないのに」
言い忘れていたが、後藤と石川先輩は、生徒の人間だった。
去年は、後藤が書記、石川先輩が副会長をやっていたが、今は石川先輩が会長だ。
後藤はというと、書記の仕事に飽きてしまい、今年はやめたらしい。
「声かけてみる?」
「やめろよ、なんか事情があってあそこにいるんだろーし」
「・・そうかな・・・・そうだね」
後藤の問いかけに否定的な返事を返すと、俺は2つ目の弁当に箸を伸ばした。

「あーーー美味かった」
「良かった、不味いって言われたらどうしようかと思った」
軽めの風が吹き、後藤の髪を少し揺らす。
今日の青空ととても似合っていて、思わず「可愛い」と思ってしまう。
「あ。梨華ちゃんがいない」
見てみると、確かにベランダから石川先輩がいなくなっていた。
「戻ったんだろ、もうすぐ5限だ・・し・・・・・」
「・・・・・・後藤たちも、5限だよねぇ」
俺はポケットから携帯を取り出し、時刻を確認する。
「ギリギリ。あと5分で始まる」
携帯から顔を上げ、後藤に視線を向ける。
しかし後藤は俺が顔を上げたことに気づかない程、俺の携帯を凝視している。
「何、どうかした?」
「んと、慎哉ってストラップとかつけない人だよね・・?」
「ん?コレのことか」
後藤が言っているのは、恐らく、この間希美とお揃いで買ったストラップのことだ。
俺は希美がレギュラーになれたこと、そのお祝いにコレを買ったことを説明する。
「そっかー・・・」
一通り話し終わると、後藤はボソっと呟いた。
「後藤、帰宅部だからレギュラーとかないよぉ・・・・・」
後藤の呟きは、風に乗って流され、俺の耳に届くことはなかった。

「俺移動教室だから先行く」
「あっ後藤も行くよ!」
俺は後藤が弁当箱を片していくのを見ながら、言葉を探していた。
何て言えば良いのだろう。
こういう場面に慣れていない俺は、少しだけ焦っていた。
「行こー」
「・・うん」

屋上特有の錆付いた扉を押し開け、階段を下りていく。
3階につき、後藤との別れ際、俺は考えに考えた言葉を発した。
「・・・・弁当、ありがとな」
なんとも言えない気恥ずかしさを感じ、ボソっと呟くようになってしまったが、
後藤にちゃんと聞こえたのだろうか。
俺は振り向かずに後藤と反対方向に歩いて行ったから、分からない。
だから、俺が立ち去った後も、その場で後藤が顔を赤くしてボーっとしてたなんて、
知らない。

第2.5話−嵐のまえの静けさ−

「海が綺麗だね」
良く晴れたある日曜日。
俺はある人と海に来ていた。
なんでも、俺に相談があるらしい。
さっきから大して綺麗でもない海を眺めて、綺麗だね、を繰り返している。
風が強く、結構寒い。
「矢口先輩、そろそろ話してくださいよ」
「・・・焦んないでよ」
矢口真里先輩。
俺と同じ学校の、3年C組。
翔太先輩と同じクラスの、生徒会副会長。
石川先輩もそうだが、生徒会に所属している者は部活に入れない。
しかし矢口先輩は、何故かバスケ部のマネージャーっぽいことをしている。
どうせ翔太先輩が目当てなんだろうけど、部員にしてみれば嬉しいことだ。

波が押し寄せ、引いていく。
そんな同じ動作を何回も繰り返す海。
それを見つめる俺と矢口先輩。
俺が波に意識を集中していると、無意識に沈黙が続く。
そんな時間がしばらく続いた後、矢口先輩がポツリと呟いた。
「人の気持ちってさ、この波と、海と、同じだよね・・・」
俺は無言で矢口先輩の方に顔を向ける。
先輩の横顔は少し、格好良く見えた。
「どうしたんですか、急に」
「今の矢口の気持ちはね、押し寄せてる。でも・・引いていっちゃうのかな・・・?」
矢口先輩の相談とはなんなのか、まだわからない。
でも俺にも今の矢口先輩みたいな気持ちだったときがある。
確かあの時、俺は・・・・・・・。
「大丈夫ですよ。引いても・・・波はまたきます」
「でもきっと矢口は引いたときに耐えられない。次を待てる自信がない・・」
波は押し寄せる際に乾いた砂浜に水分を与える。
水分を含んだ砂は色を変える。
しかし、波は全ての砂の色を変えることは出来ない。
嵐でもないと。
波が引き、砂も乾くと、互いの心は離れていってしまう。
俺はなんと返して良いのはわからず、また波に視線を戻した。
いつの間にか、風は止んでいた。

「矢口ね、翔太が好きなの」
「そうですか」
なんとなくはわかっていた。
矢口先輩、部活中にあからさまな差別をするから。
翔太先輩とそうじゃない人。
でも、今日の相談がまさかその事だとは思わなかった。
「誰かに聞いてもらいたかったんですか?」
そうだとしたなら、俺は聞き役に徹しなければ。
しかし俺の予想と反して、矢口先輩は急に真剣な顔つきになった。
「梨華ちゃんに盗られちゃう」
「石川先輩?」
先輩の言葉の真意がわからず、俺は思わず聞き返した。
何故この会話の中に石川先輩が出てくるのか。
「最近梨華ちゃん、よくバスケ部の練習見に来るんだ」
「・・そういえば・・・」
記憶を手繰り寄せると、確かに最近石川先輩の姿を部活中によく見かける。
「生徒会の取材とかじゃないんですか?翔太先輩部長だし」
「違うの。翔太とは話してないの。じっと見つめてる・・・」
俺はなるべく矢口先輩を傷つけないように、言葉を選ぶ。
「誰か他の部員を見てるんじゃないですか?」
「バスケ部で格好良いのなんて翔太しかいないじゃん」

一応俺もバスケ部員。
矢口先輩の一言は何気にショックだった。
そんなことに気づくわけがなく、矢口先輩は海を見つめたままだ。
さっき止んだはずの風が、また吹き出した。
まだ此処に着てから数分しか経っていないのに、空は暗くなりつつあった。
「・・・例え石川先輩がそうだとしても、大丈夫です」
「なんでさ・・・。梨華ちゃんが相手じゃ矢口勝てないよっ!!」
少し感情的になってきた矢口先輩を横目に、俺は海を見た。
「先輩は嵐ですから。大丈夫です」
海は嵐が近づいているかのように静かで、ゆっくりと時間が流れていた。
空が暗くて、風があるせいかもしれないけれど、なんとなく穏やかでない予感がした。
矢口先輩なら、翔太先輩の心を全て濡らしてしまう気がした。
まるで嵐のような人だから。
「意味わかんないよ・・・。でも、なんか元気出た。ありがとう!」
「どういたしまして」
「つーかさ。雨降ってきたよ!!」
「・・・走りますか」
「おぉー!」
本当に突然降り出した雨に濡れながら、先輩と一緒に走って駅まで行く。

途中はなんの会話もなく、ただ無心で走った・・・。
わけでもない。
俺は何故か石川先輩のことが気にかかっていた。
「明日からちょっと気にかけてみるか」
小さく呟いた言葉は、雨に流された。

駅に着く頃には、雨が本格的になっていた。
やっぱり、嵐が来るのかもしれない。
「ねぇ慎哉、梨華ちゃんのこと、見ててくれるよね」
「そのつもりです」
「慎哉は矢口の一番のパシリだよ」
「・・・・・」
”一番のパシリ”という言葉に、喜んで良いのかわからず黙り込んでいると、
いつの間にか電車がきていて、矢口先輩は乗り込んでいて。
俺に手を振っていた。

♪〜間も無くドアが閉まります。駆け込み乗車はお止めください。

「まぢかよ・・」
それから俺は、一人で家に帰った。
電車一個遅れた分、雨の勢力もさっきよりも増していて、ずぶ濡れになってしまった。
今日の矢口先輩の話だけじゃ、翔太先輩と矢口先輩の恋の行方はわからない。
だけど俺は精一杯応援してみようと思う。
矢口先輩が過去の俺にそうしてくれたように。

そんな出来事があった日曜日。
今日から始まる月曜日。
来月から始まる体育祭。
体育祭が7月にあるなんて有り得ない、という声もちらほら聞こえる中で、
恋をしているのは先輩たちだけじゃなかった。
そのことを知るのは、ちょっと先の話。

第3話−Walking In The Rain−

矢口先輩と海に行った日から、数日が過ぎた。
あの日を境に、雨が降ったり降らなかったり。
要するに梅雨入りをした。
今年の梅雨は断然、雨の日の方が多い。
今日も俺は雨の中を、学校へと歩いている。
あの日から数日が過ぎたにもかかわらず、俺の周辺には何の変化もない。
相変わらず石川先輩は練習を見に来ているし、矢口先輩の部員差別もある。
優も委員会で忙しいし、翔太先輩も変わらない。
何も変わっていないはずなのに、何かが変わりだした気がする。

「慎哉くん?」

ボーッと歩いていると、いつの間にか俺と並んで歩いている人がいた。

「石川先輩、オハヨウございます」
「おはよう!」
「今日は委員会はないんですか?」
「うん。あるのは体育委員だけなの」
「あー、体育祭が近いから」
それからしばらく石川先輩と他愛もない話をしながら、学校へ向かう。
校舎が見え始めた頃、まだ体育祭の話は続いていた。
「慎哉くんは何かに出るの?」
「俺ですか?俺は部活対抗リレーに出ますよ」
「アレって2年生がやるんだっけ?」
「そうです」
石川先輩は少し考えると、一人で何かブツブツ言いながら歩きだした。
「どうしたんですか?」
「・・・・・・・・・・・」
俺の問いかけにも無反応だ。
俺は話し掛ける、という行為自体が面倒臭くなり、しばらく黙っていることにした。

沈黙しながらも俺たちは歩いている。
あと数mで校門というところにくると、ポツポツと同じクラスの奴らが見え始める。
軽く挨拶を交わし、門を抜けようとしたとき、隣にいた石川先輩が、前のめりに転んだ。
俺の学校の校門には、門をスライドするための段差がある。
恐らくそれに躓いたのだろう。
一瞬のことだったので、俺は持っていた傘を手放し、石川先輩の細い腰に手を回した。
その際、石川先輩の傘についていた雨水がYシャツにかかったが、
大して気にすることでもない。

「大丈夫ですか?」
俺のお陰で、石川先輩は水溜りの中にダイブしなくて済んだ。
「だだだだいじょうぶ・・・・・」
どもりながらも、石川先輩は体勢を整えた。
「ごめんなさいっ!!慎哉くん髪の毛とかいっぱい濡れちゃって・・」
「俺は平気ですから」
「でも・・・・・・」
放っておくと、いつまでも謝り続けそうな気配なので、俺は曖昧に笑った。
「あのぉ・・・・」
それでもまだ何か言いたげな様子な石川先輩。

「腕を・・・・ね・・、・・・・・恥ずかしぃ・・・」

赤い顔で俯きながらそう呟く。
そういえば、まだ腰に回した腕がそのままだった。
「あーすいません・・・」
素早く回していた腕を戻す。

キーンコーンカーンコーン・・・
キーンコーンカーンコーン・・・・・・

丁度良いタイミングで予鈴が鳴り響く。
「じゃあ先輩、また」
「あっうんっ・・・」
なんとも言えない微妙な空気だった俺と石川先輩の間に鳴ってくれた予鈴に感謝し、
そういえば後藤と弁当を食べた日に、石川先輩は何をやっていたんだろうと、
ふいに思った朝だった。

教室に入ると、真っ先に優が話し掛けてきた。
「おはよう慎哉」
「おはよ」
「ちょっと頼みがあるんだけど・・良いかな?」
優が俺に頼みごとなんて珍しい。
「んー・・・何?内容による」
「実は今日放課後委員会があるんだけど、どうしても部活抜けられないんだ」
「大会近かったけ」
「うん。だから変わりに出てくれない?」
「俺が?」
「そうだよ」
俺は自分の席に腰を下ろす。
低血圧なためか、普段から朝が弱い俺は、朝のHRは寝ていることが常だ。
この日も例外なく、俺は机に突っ伏した。
「慎哉!!」
「カンガエトクカラオヤスミ」
俺はほとんど意識が朦朧とした中でそう呟くと、夢の中へと旅立った。
旅立つ瞬間、優の言葉が耳に入りそうだったが、残念ながら聞こえなかった。

俺はその後、2限目で目を覚ました。
ふっと顔を上げ、教室を見渡すが、誰一人いない。
しばらく椅子に座ったままボーッとしていたが、ふと我に返り時間割を確認する。
2限目は美術だった。
道理でみんないないはずだ。
俺は途中から参加するのもどうかと思い、2限をサボることにした。
時計を見ると、2限終了まで、あと40分。
どうやらまだ始まったばかりだったようだ。
教室でこのまま寝ようかとも思ったが、もう眠気は覚めている。
窓やドアが締め切られた教室にずっといた所為か、俺はうっすらと汗をかいていた。
窓の外に目をやると、朝から降り続いていた雨は、止んでいた。
空には綺麗な虹が架かっている。
特に用事もないが、俺は中庭で時間を潰すことにした。

教室から出ると、スッとした空気が俺を向かえた。
思わず伸びをし、それから歩き出す。
他クラスの前を通ると、中で授業をしている教師が疑いの視線を送ってくるが、
そんなことは気にせずに、俺は中庭に向かった。
廊下を歩きながら、今朝の優の相談事について考える。
そういえば優はあの後何を言ったのだろう。
今更になって気になったが、それもあまり気にせずに、
俺は優の頼みを受けることにした。
親友からの頼みだし、断る理由もない。
あとで優に場所と時間を教えてもらわなくては、と思っていると、
いつの間にか中庭についていた。
朝まで雨が降っていたので、中庭は濡れている。
ベンチも水が溜まっていてとても座れるような状態ではない。
サボる場所を間違えたかな、と思ったが、初心者なのでしかたない。
俺が場所を変えるべきか悩んでいたその時。
突然2階の窓から何かが俺の方に落ちてきた。

ドスン―!!!―――――――――

「え・・え・・・ええええええええぇ!!!!!」
「うるさい!静かにしろよバカ!!」

普段聞きなれない音を立て落ちてきたのは、人だった。
俺は柄にもなく大声を上げてしまっていた。
その俺の声にうるさい、と言った人物を確認する。

「藤本先輩・・・」

藤本美貴。
モーニング高校一の不良・・・・みたいな人だ。
その眼光や、言動により、下級生には恐れられているが、
中身を見てしまえば思わず友達になりたくなるような、そんな不思議な人。
俺も1年の頃は怖かったが、ある日を境に友達の仲間入りを果した。
「何やってんですか」
「慎哉か!亜弥ちゃんに追われてんの!助けて!!」
「まつーらは・・・ちょっと・・」
「そんなこと言わないでぇ・・・」
俺が藤本先輩を助けることを渋っていると、
先輩が落ちてきた窓から一人の女の子が顔を覗かせ、そして叫んだ。

「美貴たんい「「キターーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!」」

俺と藤本先輩は、松浦が言葉を言い終わらぬうちに、全力で中庭を駆け抜けた。

松浦亜弥。
その風貌に似合わずとても恐ろしい女だ。
今年入学してきた1年生だ。
入学式の日に、俺がいらぬ言葉をかけてしまった所為で、
今は藤本先輩に多大なる迷惑をかけてしまっている。
中学時代にはいじめをしていたという噂もあるが、多分本当だろう。
黙って、何もしなければ可愛いのだが、それは叶わぬ夢のまた夢。
命懸けで中庭を激走していたためか、もう随分中庭からは離れた場所にいた。
「先輩っ・・ハァハァハァ・・・もう・・大丈夫ハァですかね・・・・?・・」
「油断するなっ!!!・・!・・・ハァハァ・・」
藤本先輩も俺も、すでに走れる状態ではない。
かといって此処にいるのも危険過ぎる。
いつ見つかるかわからない。
ということで、俺と藤本先輩は旧体育倉庫にしばらく身を潜めることにした。
大分息も整ってきた。
「あの先輩」
「何?」
俺はほんとに急な展開に、少々頭が回らなくなっていた。

「今日はどうして松浦に追いかけられてたんですか」
「亜弥ちゃんがお弁当一緒に食べようって言ってきたから、
美貴がまだお弁当の時間じゃないよって言ったの。
そしたら亜弥ちゃんのホッペがプクーって膨れていって・・・」
「それで追いかけっこスタートですか・・」
とりあえず藤本先輩が逃げていた理由はわかった。
問題は何故俺が巻き込まれてるのか、だ。
「俺は関係ないですよね」
「まぁねぇ」
藤本先輩は此処までは松浦が来ないと踏んでいるのか、余裕に満ちた笑みで答えた。
「美貴さぁ、亜弥ちゃんにお弁当取られてて、ないんだ」
この辺りで嫌な予感がし始める。
「慎哉のお弁当ちょーだい」
「後輩にたかる気ですか?」
「購買のパンの8個や9個、いいじゃんかよー」
そんなに食うのかよ・・・。
俺が呆れた顔をしていると、藤本先輩の目がギラリと光った。
「亜弥ちゃんの気配・・!」

そう言うと、素早く倉庫のドアに近づき、耳をあてる。
左手で鍵が閉まっているとこを確かめると、先輩は小声で言った。
「これ以上ここにいるのは危険かも。それと、二人でいるのも」
俺もこの意見には賛成だった。
ここからは二人よりも一人で逃げた方が良いはずだ。
俺は藤本先輩よりも早く旧体育倉庫を抜け、教室に戻ることにした。
別れ際、藤本先輩に2000円渡してしまった俺は、どこか情けない感じがした。

旧体育倉庫から出ると、外はまた雨が降りだしていた。
当然傘など持っていない俺は、ポツポツと降る雨で、だんだんと濡れていった。
でも、何故だか駆け足で教室に戻ることはしなかった。
いつもの調子で雨の中を歩いていく。
途中、このまま教室に行っても、教室内を濡らしてしまうので、
俺は保健室に行って着替えることにした。

体から水をポタポタと滴らせながら、保健室のドアを開ける。
ガラガラー、と無機質な音を立てながら開いた扉の中には、誰もいない。
少し中に入って室内を見回すと、ひとつだけカーテンが引いてあるベッドを見つけた。
きっと病人でも寝ているのだろう。
俺はなるべく音を立てないように、Yシャツを脱ぎはじめた。
ボタンをはずすと、体を空気が包み込む。
雨に濡れていたのだから仕方ないが、ちょっと寒くて身震いをする。
水道でYシャツを軽く捻り水気を出し、髪をその辺にあったタオルで拭く。
ズボンはどうするかな、と考えていると、ドアが開かれた。
入ってきたのは保健の安倍先生だった。
「あれ?鳴海くん・・・だよね。どうしたの、お風呂上がりみたいな格好して」
俺は自分の格好を見る。
確かに風呂上がりに見えないこともない。
「雨で濡れちゃったんで勝手に色々使ってます」
「そっかー、降ったり止んだりだもんね」
安倍先生は数枚の書類を机の上に置くと、俺の方に視線を寄せた。

「下はどうしよっか」
「俺も今悩んでたんですよね」
穿いたまま乾かすという手もあるが、それでは風邪をひいてしまう。
数秒の思考の後、安倍先生はロッカーをなにやらゴソゴソと漁りだした。
「確かここにあったはずなんだけど・・・」
やっと目当ての物を見つけたらしい安倍先生が、こちらにやってくる。
その手に握られていたのは、ジーンズだった。
「制服乾くまでこれ穿いててね」
「良いんですか?」
「うん。コレなっちが穿こうと思って買ったんだけど、サイズ間違えちゃって」
安倍先生は少し照れた感じで笑うと、俺の胸にジーンズを押し付けた。
何で安倍先生はこんなに大幅にサイズを間違えたのだろう。
そんなことを思いながらも、俺は早速着替えることにした。
安倍先生は俺が着替えはじめると、慌ててカーテンが引かれたベッドの方へと走っていった。
濡れたズボンを脱ぎ捨て、ジーンズに足を入れる。
あまりピッタリしていなくて、中々俺に合ったジーンズだった。
時折、安倍先生とベッドで寝ているであろう生徒との会話が聞こえてくる。

『熱は下がったみたいね。今日はもう帰る?』
『そうっすね。まだちょっとだるいんで』
『櫻井くんC組だったわよね、先生にはなっちから言っておくから』
『ありがとうございます』

まさか具合が悪いのは翔太先輩!?
漏れ聞こえる会話の流れからすると、翔太先輩と推測するのが普通だろう。
俺がどうやって挨拶するかを悩んでいると、安倍先生がカーテン元に戻した。
やはり中にいたのは翔太先輩だった。
「慎哉!どうしたんだよこんなとこで。あっ、お前も具合悪いの?」
「ちょっと雨に濡れちゃって・・先輩、大丈夫ですか?」
「俺?大丈夫だって!微熱だしな。それより慎哉」
翔太先輩はいきなり真面目な顔になり、ベッドを飛び降りこちらに向かってきた。
俺の目の前に立つと、先輩は俺を上から下まで見回す。

「ななな、何ですか・・・?」
なるほど、といった顔つきに変わる。
「お前良い体してんなぁー。鍛えてんだ、そっかそっか」
何を言われるのかとビクビクしていた俺は、安堵の息を漏らした。
そういえば上はまだ何も着ていない。
「先輩だって凄いじゃないですか」
「まぁ男は常日頃から鍛えないとな〜」
翔太先輩と二人で話すのは、結構久しぶりかもしれない。
俺たちが時間も気にせず語りあっていると、安倍先生がため息を吐きながら言った。
「ほら、病人はさっさと帰る!サボりは授業に戻る!!」
頬をプゥと膨らました安倍先生は妙に可愛くて、先輩と二人して笑ってしまった。
笑われたのが癪に障ったのか、安倍先生は俺たちを保健室から追い出し、
鍵をかけさっさと職員室に行ってしまった。
翔太先輩はそのまま家に帰ってしまったが、俺はしばらくその場に佇んでいた。

どうしよう。
着る服がないじゃないか。
Yシャツは保健室で乾かしたままだ。
保健室には鍵がかかっているし、半裸で職員室にも入りにくい。
それに入れたとしてまだ乾いていないだろう。
ここは安倍先生が来るのを、待っていた方が良さそうだ。
結局俺は、3限目もサボることになってしまった。
俺は丁度廊下からは見えない、死角になっている階段に腰を下ろした。
ここからなら保健室が良く見える。
尚且つ、教師や生徒にも見つかりにくい場所だ。
窓を見ると、まだ雨は降り続いている。
そういえば矢口先輩と翔太先輩はどうなったのだろうか。
今日翔太先輩に会った限りでは、なんとも言えない。
優にも委員会に出ることを言わなければいけないし・・・。
数学の宿題もまだやっていなかったような気がする。
難しいことを考えていると、自然に俺は眠りについていた。

「さみ・・・・・」
上半身に激しい寒気を感じ、俺は目を覚ました。
それと同時に香る、良い香り。
香水だろうか。
良く知っている香りだ。
俺は懐かしさと眠気が相まって、すごく自然に呟いていた。

「後藤の匂いだ・・・・」

上半身は寒いはずなのに、妙に温かい右肩。
そこには後藤が、可愛い寝息をたててぐっすりと寝ていた。
背中に後藤の髪の感触が、直に伝わる。
俺の中で、後藤との思い出が鮮明に蘇る。
堪え切れなくなり、思わずまた呟く。

「後藤・・・」

「・・ん・?」

小さく帰ってきた返事に、思わずビクッと震えた。
まさか返事がくるなんて思わなかったから。
「ごめん、起こした?」
「・・・・ん・・」
後藤は少し動いて、俺の鎖骨辺りに頭を持ってきた。
一番居心地の良い場所を見つけると、後藤はまた瞼を閉じた。
しかし後藤には悪いが、今寝てもらっては困る。
寒いし、今何時なのかも気になるところだ。
「後藤?起きて・・」
ゆさゆさと体を揺すってみる。
程なくして、後藤は目を覚ました。
「・・慎哉?ごめん!ゴトー寝ちゃってっ」
「良いから。今何時?」
「んとぉ・・・」

後藤はそう言ってポケットの中の携帯を探し出す。
俺の携帯は教室の鞄の中だ。
後藤は画面に表示された文字をそのまま読んだ。
「18:50」
「は?もうそんな時間?まじで?」
「ほんとだよ。ゴトーがここで慎哉見つけたときが、下校時刻だったから」
思いのほかかなりの時間を寝ていたようだ。
この時間だと、校門が閉まっているとこはないだろう。
しかしこの格好で家まで帰るのは少し辛いものがある。
寒いし、半裸だし。
「慎哉どうするの?上・・」
俺の気持ちを察したのか、後藤も同じような疑問を抱いたようだ。
「どうすっかなー・・・」
二人して腕を組んで考える。
俺が出した結論は、このまま帰るしかない、ということだった。

「やっぱこのまま帰」「あのさ!」
俺の言葉を遮って、後藤が声をあげる。
「何?」
少し耳が赤くなっている。
顔も俯き加減だ。
こんな後藤はどっかで見たような・・・?
そうだ、弁当に誘われたときだ。
俺は後藤を真っ直ぐに見つめると、先を促した。
「なんだよ」
「あのぉ・・うち、寄ってかない?」
正直、驚いた。
「ほら!慎哉の家よりうちの方が近いし、ユウキの服もあるし・・・ね?」
「・・・・うん」
今度は俺が真っ赤になる番だった。
何を想像しているんだ、俺は。

もう二度と行くことはないと思っていた後藤の家。
そう考えると、どうしても期待せずにはいられない。
まぁ・・・男だし・・?
その時唐突に頭の中に浮かぶ優の顔。

「ア」

そういえば委員会。
もう、完全に終わってる時間だ。
どうしよう、優になんて言えば良いのだろうか。
「どうしたの?」
「うん?あーいや、なんでもない」
とりあえず今は後藤だ。
「後藤ん家に行くとしてもこの格好じゃ外に出れないな・・・」
「そうだね・・誰か先生の服借りる?」
「うーん、それしかないか」
さすがにこのままで外をうろつくのは御免だったので、
俺は体育のまだ若い先生の服をこっそり借りることにした。

まず後藤が職員室を軽くノックする。
扉を開けると、意外と人が少ないことがわかった。
「あのぉー」
後藤が目的の先生と話している隙に、俺は職員室に忍び込んだ。
幸い、職員室には体育教師と校長しかいなかったので、意外とすんなり服は手に入った。
軽く後藤に目配せをし、俺は先に職員室を出た。
数秒して後藤も出てくる。
「うまくいった?」
「うん。サンキュ」
「えへへ・・・・」
自分の髪を触りながら照れ笑いする後藤に、俺の胸の鼓動は高まった。
こんな何気ない仕草にドキドキしてどうする、俺。
気持ちを切り替えると、俺は昇降口に向かった。
俺の少し後ろを後藤がついてくる。
すでに雨は止んでいた。

俺、ダメかもしれない。